lemonの掃き溜め

日々の生活や考え事、妄想などをただ綴ってるだけ。

意志の弱さ

私は人と関わるのが苦手だ。

どうしようもなく、下手くそなのだ。

いくらネタであろうと人の欠点の言い過ぎは良くないが、衝動的に発してしまう。

気づくのはいつも言葉を放った後で、傷つけてしまったんじゃないか、怒らせてしまったんじゃないか、でも今さら謝ると返って気を遣わせてしまうんじゃないか、などなど…。

なんでもかんでも衝動的に行動してしまうのをやめたい。でもやめられない。

自分がADHDである、ということも、受け手にとっては言い訳にしか聞こえないだろう。

コンプレックスを指摘される苦しみは痛いほど分かっているはずなのに、気を抜くとすぐこうだ。

自分はなんて最低な奴なんだろうと思う。

今こうしてフリースクールへ通い、毎日笑って過ごすことが出来ているのも周りのみんなが優しいだけで、本当は嫌な思いをさせているんじゃないか、存在してるだけで迷惑なんじゃないか、そんな思いが消えない。

在籍校では少なくともそうだった。

私が居るだけで空気が悪くなり、休み時間など人が少ない時に教室に入ると、みんなそれとなく教室を出て行く。

それを横目に、気にしてないフリをして絵を描いていた。

1人で過ごすことも、友達が少ないことも、あまり人に好かれていないのも大した苦痛ではなかったが、″私が存在していることによって迷惑を掛けている″という事実は苦しくて堪らなかった。

これを言うと悲劇のヒロインを演じているだとか、良い子ちゃんぶってるだとか、そういうように聞こえるかもしれないが、当時は本気で苦しいのも悲しいのも自分だけで良い、みんなには楽しく笑って過ごしてほしい、そう思っていたし、今も思っている。

だから合唱コンだったり、そういう学校行事の前に意気込みを一言みんなの前で1人ずつ発表する、みたいな時は、常に「みんなに迷惑を掛けないように頑張りたいです。」と言っていた。

昔からそうなのだ。

大人数の輪の中に入れば、だいたい微妙な雰囲気になる。

自分でも私は理屈っぽくて面倒な人間だということは理解しているし、こんな人間は万人受けしないだろう。

迷惑な存在は迷惑な存在なりに控えめに生きてるつもりなのだが、それでも人と合わせることが出来ずいつも悪目立ちする。

今はたまたま恵まれた環境に居るだけで、将来社会に出たらまた同じことの繰り返しなんじゃないかと思うと、怖くて堪らない。

自分が怖い。無意識のうちに人を傷つけてしまうのも、嫌な気分にさせてしまうのも、もう嫌なのだ。

ただ大人しいだけの無害な存在ならそれでも構わないが、私は大人しくしてるつもりなのに悪目立ちする、無意識のうちに人を嫌な気分にさせてしまう有害な存在なのだ。

それが耐えられなかった。

プラスになれなくともゼロなら良かったものを、私はそれすら出来ず常にマイナスだった。

自分を好きになりたいのに、どうしたって嫌いになる。

だから今いる片手で数えられる程度の数少ない友人たちには、本当に頭が上がらない。

どうして私を受け入れてくれるのかは分からないが、それでも私という存在を肯定してくれる。その事実だけで充分だった。

だからこそ、そういった友人がいない場での言動が緩んでしまう。

もしかしたらまた友人たちのように私を受け入れてくれる人が居るかもしれない、なんて、都合の良い夢でも見ているのだろうか。

とことん自分は馬鹿なんだな、と落胆する。

 

私は幼い頃から「我が道行く」と言った感じで、良く言えば芯のある、悪く言えば人と合わせられない子供だった。

それは今でも同じで、「他人の為に自分の信念を曲げるなんてそんなの許せない」という自分が居る。

嫌われてしまうのも無理はない。

私は周りにとって都合の悪い人間なのだ。

それは長所でもあり、時に短所でもある。

いや、むしろ現代社会を生きる上では短所でしかないのだろう。

そういった意味でも、普通になりたい、と思う。

 

話題を変えよう。

前回の記事で「最近リス禁(リストカット禁止)を始めた」などという旨を伝えたと思うが、約2〜3週間のリス禁は一昨日見事に失敗へと終わった。

気づけば剃刀を手にしていて、頭では「切ってはいけない」と警告音が鳴り響いているのに、ふと我に返った時には既に血が滲んでいた。

「なんて意志が弱いのだろう」と思う反面、ずっと我慢していたからすごくホッとしたし、胸の奥の不安感が軽くなった気がした。

季節はあっという間に巡り、きっとすぐに春が訪れ夏になるだろう。

半袖になるのも時間の問題だ。

そろそろやめられるようにしなければ夏場困るのは自分だし、最近書き始めた医者に見せる用の日記にもきちんと自傷行為や精神状態のことなどを記録するようにしている。

今までリスカしていたことは医者には黙っていたが、このままではズタボロのバーコードと化した手首を公共の場に晒す羽目になってしまう。

特に志望校は私服登校だし、バイトなんぞ始めたら、それこそ接客業なんかやっててバーコード手首なんて洒落にならない。

正直に報告して、きちんとやめられるようにしたい。

もう、逃げてばかりではいけないのだ。

一時的に目を背けていた現実も、いつかはこちらを覗き込んでくる。

だからきちんと向き合わなければならないのだ。

もう二度と自分を殺すことがないように。

 

 

では、また次回。

深海

息苦しい。

精神的にも、身体的にも、どういうわけか追い込まれている。

特別何かがあったわけでもないのだが、おそらく原因は謎の動悸、息切れ、目眩、咳などの身体症状だろう。

やはり体調が悪いと精神も参ってしまう。

それに加え、スランプに陥ってしまった。

どんなに頭をひねっても、言葉が出て来ないのだ。

このブログでさえ、なんとか絞り出して書いている有様である。

もしかしたらこれを読んでいる貴方も、「あれ、なんかいつもと雰囲気違くない?」と感じているかもしれない。私もそう思う。

いつもなら特に深く考えることはせず、書き始めたらスラスラ言葉が出てくるのに。

こんなことは今まで生きてきた中で初めてだ。

こんなの、こんなの私じゃない。

メンヘラ.jpの記事だってまだ書き途中の物が残っているし、いくら締め切りがないとは言えどあまりお待たせするのも申し訳ない。

身体症状と、スランプのもどかしさと、最近始めたリス禁(リストカット禁止)が私を押し潰し、メンタルをゴリゴリ削り取って行く。

私にとってもはや生きる意味と化した「言葉」を、思い通りに操れないのは本当に苦しい。

まるで暗い海の中を彷徨っているみたいだ。

どうすることも出来ず、ただどす黒く汚れた胸の内を吐露している。

もうすぐ受験も迫っていて、学力試験無しの面接一本とは言えど緊張するものはするし、練習の時点で動悸と息切れで頓服を突っ込むような有様だ。

本番が不安でしかない。

思い返せばここ最近は不安感と破壊衝動に振り回されっぱなしである。

気がついたら剃刀を握り締めていたり、ベランダの手すりをジッと見つめていたり。

だけど私の友人は皆、面接以外にも作文や学力試験があって、私なんかよりずっとずっと大変なのだ。

面接しかないような人間が、それだけで不安だのなんだの言ってられない。

だけど、それでも私は今にも不安で押し潰されそうで、今すぐ全てを投げ出したくなる。

どうしようもなく、苦しい。

原因不明の動悸や息切れなどの身体症状も、一応精神科で相談はしているものの、正確な診断名は今のところない。

やはり内科などに行くべきなのだろうか。

色々とキーワードを検索してみたが、よく分からないけど怖そうな病名がズラリと並んでいて、「最悪の場合死に至る」なんて物騒な言葉もチラホラ。

やめてくれ、まだ私は死にたくない。

死にたい死にたい言ってても結局死ぬのは怖いし、出来ることなら生きていたい。

まだやり残したことだらけなのだ。

3月には96猫さんのワンマンライブがあるし、まだ斉藤壮馬さんにも会えていない。

何より、やっとやりたいことを、夢を、見つけたのだ。

こんなところで、下らないことで、磨けば光るかもしれない原石を粉々にしてしまいたくない。

やっと見つけた、私の宝物。

これから一生をかけて、大切に大切に磨いていく予定なんだから、それをここで「はい、おしまい!」なんて、そんなの哀しいじゃないか。

毎日毎日「死にたい」と零し、剃刀で手首をボロボロにし、泥沼を這っていた私が今、「生きたい」と願っている。

ちょっと前の私じゃそんなの考えられなかったし、これらは全てメンヘラ.jpと出会い、そして在籍校からフリースクールへ移行し、メンタルを安定させ、「言葉」の素晴らしさを知ったからだ。

どうしようもない苦しみも、変えられない過去も、変えようとしている未来も、全部どこかの同じように悩む誰かに役立つかもしれない。

そう思ったら、死ぬわけにはいかなかった。

近いうちに病院へ行って、しっかり検査してもらおうと思う。

どうかそんな怖い病気じゃないことを願って。

生きるぞ、今日も明日もこれからも。

 

冒頭でもお伝えした通り、最近スランプに陥っています。

読みにくい文章だったとは思いますが、ご容赦下さい。

 

 

では、また次回。

憎悪

先日、新川和江さんの「わたしを束ねないで」という詩を国語の授業で扱った。

以下、詩の全文。

 

わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡す限りの金色の稲穂

 

わたしを止めないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽撃き

こやみなく空のひろさをかいさぐっている

目には見えないつばさの音

 

わたしを注がないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦い潮 ふちのない水

 

わたしを名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

坐りきりにさせないでください わたしは風

りんごの木と

泉のありかを知っている風

 

わたしを区切らないで

,や.いくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

 

この詩は新川和江さんの「何にも縛られず自由に生きたい」という、生きる望みを綴った詩なんじゃないか、というのが、授業での結論だった。

そして、この「わたしを束ねないで」と同じ構成で自分自身の望む生き方を詩にしてみよう、ということで、私は以下のような詩を創った。

 

私を殺さないで

極彩色の絵の具のように

全てを焼き尽くす炎のように

私を殺さないでください 私は水

終わりのない世界

にごらない瞳

 

この詩に込めた意味は、これを読んだ皆様のご想像にお任せしようと思う。

個人的には気に入っているので、ここに掲載した次第である。

 

 

そして次の話題。

これもまた授業でのことなのだが、今社会の授業では公民をやっていて、先生がお喋り好きゆえに雑談がよく入る。

その時話していた内容がなんとも言えぬものだったので、その話をしよう。

 

三者面談。

学生時代に一度くらいは経験したことがあるんではなかろうか。

先生曰く、日本の三者面談で親は教師に「うちの子はみんなと同じことが出来ていますか?」と聞くそうだ。

そして教師が「みんなと同じですよ。」と言うと、ホッとした顔をするらしい。

ところがフランスの三者面談では、親は教師に「みんなが○○してる間、うちの子は何をしていますか?」と聞き、教師が「1人で□□をしていますよ。」と言うと、「個性だ!」と喜ぶ、とのこと。

 

…なんだこの違いは。

きっと日本なら、みんなと違うことをしていると知った親は不安になったりするんだろう。

仲間外れにされてるんじゃないか、うちの子は人と違うんじゃないか、等々。

この芯まで染まった根強い「集団行動」「同調圧力」は一体なんだ?

人と違うことをすることの、何がいけない?

冷静に考えれば分かることじゃないか。

みんなが休み時間にボール遊びをしてるからと言って、読書をしてはいけない理由にはならない。当たり前のことだ。

だけどどういうわけか、「仲間外れ」「いじめ」「異端者」という名前がついてしまう。

何ひとつおかしいことはないのに。

これを私は「承認欲求」のせいだと思っている。

今の親は赤子が泣こうが騒ごうが走り回ろうがなだめることも注意することもしない。

「成長したらどうせ覚えてないだろ」と、まだ上手く気持ちを伝えられない子供に向かって己を否定するような暴言を平気で吐く人間もいる。

確かに覚えてない。そりゃ幼い頃の記憶など曖昧だ。

しかし、たとえ言葉が通じなくても、覚えていなくても、雰囲気や表情で伝わるものは伝わるし、その時出来た傷は一生残る。

それが現代の化け物、「承認欲求」に囚われる人間の、原因だろう。

生まれてから1番近くにいるのは大抵の場合親だ。

その親からの愛情をきちんと受けられなかったからこそ、無意識の「承認欲求」に駆られる。

そして、簡単に認めてもらえる「人と同じ」ことをして、承認欲求を満たしているんじゃないか、と思う。

 

人と同じことをして、いわゆる「普通」の平凡な人生を歩むことが「幸せ」とされていて、そうでなければ異常だと言われてしまう世界。

個性だなんだ言うけれど、それがあることによって仲間外れだなんて、そんなの個性もクソもあったもんじゃない。

学校よ、日本の教育者よ、貴様らの言う「個性」「教育」とはなんだ?

社会にとって都合の良い歯車となり、死ぬまで媚び売ってペコペコしてる犬のことか?

それは個性じゃない、教育じゃない、奴隷だ。

貴様らは奴隷を育てているに過ぎない。

人と違うことの何がいけないのか、なぜ自我を殺してまで人と合わせなきゃいけないのか。

生徒の命より、人ひとりの命より、労働力の方が大切か?

 

私はフリースクールに通う前、つまり在籍校へ通っていた時代は、死ぬか卒業するか転校するか、の三択しかなかった。

転校は金もかかるし、ただでさえ人と関わるのが苦手なのにまた1から知らない人間と関係を築くのか、と考えたら、やはり無し。

死と卒業のどちらが先か、そんな毎日だった。

フリースクールなんて存在は知らなかった。

教師は誰ひとりとしてそんなこと教えてくれなかった。

なぜ3年生になるまで放っておいたのだ?

私は1年生の時にいじめで自殺未遂をしていて、一度担任に呼び出されている。

自殺未遂をする前に、担任はいじめの存在を認知していたはずだ。だけど見て見ぬ振りをした。

死んでからじゃ遅いんだぞ。良かったな、死ななくて。

呼び出されたその時にフリースクールの存在を知っていれば、もっと早くあの苦しみから解放されていたはずなのに。

担任としては自分のクラスから不登校児、いじめられっ子なんて出したくないだろう。

だけど自分の欲のせいで、生徒が死んだらどうする気だ?どう責任を取る?

そんなの、謝って済む問題じゃない。

 

2年半自我を殺して学校に通ったおかげで心も体力も気力も削り取られ、現在は回復へ向かっているものの、トラウマのせいで色んなことが出来なくなっている。

在籍校の教師が憎い。大嫌いだ。

卒業文集には「3年間の思い出を〜」だと?

私に対して大小問わず何かしらの危害を加えた人間の名前をフルネーム、やられた内容を事細かに書き連ねてやろうか?

不登校児になった途端に教師が揃って顔色変えて優しくすり寄ってくるのも気持ちが悪くて吐き気がする。

「元気にしてた〜?」だと?

その元気を奪い取った貴様らが何を言う。

フリースクールに通っているものの、籍を置いているのは在籍校なので、やはり一刻も早く卒業したい。

この呪縛から解き放たれたい。いい加減にしてくれ。

 

そんな怒りが、フツフツと湧いている今日この頃。

似たような内容をメンヘラ.jpにて書かなきゃならないのだが、このままだとあまりにも乱雑な内容を読者の皆様にお届けすることになりそうだったので、ひとまずこちらで吐き出させてもらった。

お目汚し申し訳ない。

 

 

では、また次回。

学校を、休んでしまった。

 

かなり日が空いての更新となってしまってごめんなさい。

 

今日、私は無気力ゆえに学校を休んでしまった。

無気力なんていつものこと、そう思っていたら、朝起き上がれなかった。

これはもしや本格的に起立性調節障害の症状が…?とも思ったけど、おそらくそうじゃない。

学校が嫌なわけでもない。

じゃあ何が嫌なのか。

そう、それは自分が嫌なのだ。

「自分が嫌なことと学校を休むのに何の関係があるの?」と思うだろうが、本当に思い当たる節がこれしかない。

私はこれでも一応受験生の身で、いくら学力試験がないとは言えど書類やら面接やらである程度は忙しいし多少の不安はある。

特にこの書類、願書やらなんやら色々あるわけだが、もちろん提出期限があって、本来ならきちんと間に合うように書いて提出しなきゃならないわけだ。

しかし、私はこれが出来ない。

そう、ADHD特有の「先延ばし」だ。

最初から本書きをするわけではなく願書をコピーして練習したりするのだが、私は昨日先生に「明日までに願書の練習用紙、清書してきてね」と言われた。

私は「そんなに難しいものじゃないし、ささっと書いて提出すっか〜!」なんて、呑気なことを考えていた。が、これが私のダメなところだ。

結局あれやこれやと好きなことをしているうちに深夜を回り、風呂に入るのも忘れリビングでうたた寝をし、結局朝になった。

早朝、死ぬほど急いで風呂に入ったもののここで鬱スイッチがON!

分かっていたことなのに、いつも先延ばしにしてこうなるのに、何で私は出来ないんだろう。

こんなの自業自得でしかないし、なんなら自分がADHDっていうのも言い訳にさえ思えてきた。

私がダメなせいで色んな人に迷惑をかけてしまっている。

そんな申し訳なさ、罪悪感、自己嫌悪でズブズブと鬱の沼にハマり、ひたすら唇の皮を剥がしていた。

前にも言ったが、私はどうも冷静になろうとすると自傷行為をする節がある。

気づいたら唇の皮が全部なくなっていたし、いつの間にか掻きむしった皮膚は赤くなり、湿疹が出来ていた。

至る所がヒリヒリしていた。

何もかもが嫌で、現実から逃げるように重い身体を引きずり布団に潜り込んだ。

ものの1時間で起床時間になり、母が起こしに来た。が、起き上がれない。胃が痛い。目眩がする。

いつもならちょっと寝れば鬱なんてどこかへ吹き飛ぶのだが、今回はどうにもダメで。

ボソボソとした声で曖昧な返事をし、結局学校を休んでしまった。

しばらくすると担任から電話が掛かってきて、かなり心配を掛けていたことも分かった。

またこれで罪悪感に拍車がかかり、ああなんて私はダメな人間なんだろう、と思いつつそっと泣きながらまた深い眠りに落ち、そしてつい先ほど目を覚まし、今に至る。

 

私は今までの14年間、周りの優しさに甘え、ありとあらゆることで迷惑と心配を掛けてきた。

色んな言い訳をしてきた。

言われなくても自分が最低なクソ人間というのは自覚してる。

でも自覚したくなかった。そんな事実から目を背けた結果、また人に迷惑を掛けた。

私は逃げてばかりだ。

いつまで経っても幼い子供のようで、嫌になる。

自分が悪いのにそのせいで自己嫌悪に陥り、そこでまた人に迷惑を掛ける。そしてまた自己嫌悪。

こんな堂々巡り、早く辞めてしまうべきなのに。

発達障害」という名前に縋って守ってもらってる。

自分でも分かっているのだ。本当に私は発達障害だから「仕方ない」と。

だけどそれでも許せなかった。仕方ないの一言では済ませられなかった。

発達障害だからってそれを言い訳に誰彼構わず迷惑を掛けて良いわけじゃない。

それを分かっていても、自分で自分の心も身体もコントロール出来なくて、何も出来なくなって。

どうしようもないジレンマが私を襲う。

ただひたすらに申し訳ない気持ちで溢れかえり、もうなんでも良いから解放されたかった。

これ以上自分に失望させないでくれ。

もう自分のことを嫌いになりたくない。

好きになろうと私なりに必死に頑張っているのに、全部空回りして更に嫌いになる。

自己嫌悪で済めばいいものの、そのせいで人様に迷惑を掛けている。

なんて自分勝手なんだろう、ここでまた失望する。

どう頑張っても立ち上がれない。

夢を必死に追いかけて掴んだ人の煌めきに憧れて、自分もそうなりたいと思ったが、そんなことよりまず私は人並みに生きなきゃいけない。

常日頃から人に迷惑を掛けまくって生きるなんて、苦痛でしかなかった。

苦痛でしかないのに、自分じゃ何も出来なくて、また同じ失敗をする。

こんなの悪循環でしかない。

助けてほしいと願うのもおこがましく思えてきて、結局宛のない怒りと悲しみを自分自身にぶつけ返し、身体中を傷だらけにする。

自分のすること何もかもが社会に逆らっているようで、余計に人並み以下へ落ちるだけだ。

「人と比べる必要なんてないよ」「それも個性だよ」なんて優しい言葉を掛けてくれる人もいたが、いくらそう思ったところで今のこの世の中で生きる為には人と比べられて、より優秀でなければいけない。

嫌でも普通、または普通以上を求められる。

とことん私は生きるのに向いていない。

明日、私は人生15年目を迎えるが、結局15年生きても人並み以下にしかなれなかった。

きっとその先もそうだ。

私なりに成長したつもりでも、周りはその何倍も成長している。

いつだって比較されて落ちこぼれの烙印を押されるのを待つだけのガラクタだ。

 

 

久しぶりの更新がこんな内容で申し訳ない。

 

月曜からはきっと登校出来ることを願って。

 

 

 

では、また次回。

頭痛と睡眠と鬱と破壊衝動

新年の挨拶を済ませていきなりこんな暗い記事を書くのもアレだが、まあ何せここは「lemonの掃き溜め」だ、どうか許してくれ。

 

私は幼い頃から頭痛持ちだった。

特に雨の日や台風の日など、低気圧には大変弱い。

出来ることなら起き上がりたくないし、頭痛薬無しではあまりにもしんどい。

だけど私は今まで、頭痛薬というものを飲んだことがほとんどなかった。

まあ確かに子供のうちから薬漬けになるのも内臓に良くないが、そういうわけではなく、私の頭痛はすごく微妙なのだ。

痛むんだけど、学校を休むほどでもない。みたいな。

軽めだけど慢性的で継続的な、微妙に耐えられるレベルの頭痛。

それが私の抱える頭痛だった。

だけどメンタルを崩してからは、天候関係なくその時の気分次第で頭痛が発生するようになってしまった。

要するに鬱になれば頭痛やら腹痛やらを抱えるし、元気になればいつも通り健康、ということだ。

これがなかなかしんどい。

なんてったってメンタルを崩してるのだ。

些細なことで鬱になってしまう。

その度に頭痛が起こっては生活に支障が出るのも時間の問題だろう。

そんなわけで私は前回の通院時に頭痛薬と、胃が荒れないようにする為の薬を頂いた。

これがもうべらぼうに効くのだ。飲んだその日はどんなに鬱になろうと何もない。

健康とは素晴らしいものだな、と改めて実感した。

(これは余談だが、私は基本的に不健康なので非常に子供らしからぬ生活をしている。そりゃ身長伸びないよな、JC3で147cmってなんだよ。)

 

そして同じく前回の通院時、いつものストラテラに加えて新たに睡眠薬が追加された。

初回だからおそらくかなり弱いやつだと思われる。

しかも錠剤を半分に割ったやつ。

「まあまあ、所詮半分に割ってあるし?」

と思っていたわけだが、あまりにも私の生活リズムがクソなせいで寝る時間がどうしても朝方になってしまい、飲むタイミングが全くなかった。

そんなわけで一昨日初めて飲んだわけだが、まあアレは素晴らしいな。

あんなにきちんと中途覚醒もなく眠り、パッと目が覚めたのは実に久しぶりだった。

しかし、日本語として成立していない説明口調のわけのわからない夢を見たのと、目が覚めて数分間は視界が歪んでいたのだけは理解不能だった。

おそらく初回だから効き過ぎているのだろう。半錠だけど。半錠だけど。(大事なことなので2回言いました。)

そして昨夜、またしても私の生活リズムがクソなせいで眠剤を飲み忘れた。

すると寝たのが朝方なわけだが、たった2〜3時間で目が覚めてしまったのだ。

思わず「もう薬無しでは生きていけない!」なんてヤク中めいたことを口にしてしまっていた。

 

そして度々、ここ、lemonの掃き溜めにも登場する「鬱」と「破壊衝動」。

まあとても厄介だ。

破壊衝動は月に数回程度だが、鬱に関しては週に複数回、酷い時は1日に何度も訪れる。

激しいイラつき、自己嫌悪。

感情のジェットコースターが急発進し、号泣謝罪自傷を思わずキメてしまう。

なんだか躁鬱に似てるな、とも思うが、そこは医者じゃないのでなんとも言えない。

特に何か大きな精神的ショックを与える出来事があったわけでもないのだが、推しに萌えていたと思ったら数分後には起き上がれなくなって泣いていることもしばしば。

要するに情緒不安定なのだ。

これがまたなかなかしんどい。

休日ならまだしも、平日、つまり学校がある日にこれだと生活になかなかの支障が出る。

しかも周りに気づかれては色々と面倒なので、いつも通りに振舞わなければならない。

しんどい時ほど笑顔や人とのコミュニケーションというのは苦痛で、出来れば保健室で寝ていたいところだがそういうわけにもいかない。

鬱の度にそんなことしてたら何の為に学校へ行ってるのか分からなくなってしまう。

 

眠剤が効き過ぎるのなら、安定剤の副作用で眠ってしまいたいものだ。

メンタルや体調、薬の有無で振り回されっぱなしだと体力や気力の消耗が激しく、何か癒しが欲しい。

今のところ私にとっての癒しは斉藤壮馬さんの画像を眺めることだが、なんというかメンタルを崩してから気づいたことがあり、それは「楽しいことや趣味」と「癒されること」は別なんだな、と感じた。

私の趣味は絵を描くことなどだが、ちょっとメランコリーな時はまず起き上がる気力さえないので絵を描く以前の問題だ。

結構これでも多趣味な方なんじゃないかな、と思うが、いくら趣味が多くたってメンタルが弱ってる時に何も出来なければストレス発散にはならない。

何か無気力な時でも出来て、癒されることって無いだろうか。

 

そんな、「なんだかなぁ」な日々を送っている。

 

今回は随分と長くなってしまった。

およそ2000字。

読み疲れてはいないだろうか?

ここまで読んでくれてありがとう。

 

 

では、また次回。

JCブランド

私には、文才がない。

 

私は、あらゆる記事を書き、それをインターネット上に公開してきたわけだが、それによって読者様にお褒めの言葉を頂くこともそれなりに増えてきた。

赤の他人の私を、私が見ていないところでわざわざ評価してくれるのだから、それがお世辞ではなく本心だというのは充分に分かる。

だがしかし、エゴサなどでいくつか拝見することが多々あるのだが、どこもかしこも「JC3でここまで書けるのはすごい」「中学生が書いたとは思えない」など、私がJC3だから評価されたものが多いのだ。

もちろん褒めて頂けるだけでありがたいし、光栄なことだ。

だけど、なんというか、それは私が学生じゃなかったらどこにでもあるものなんだな、と思ってしまう自分がいる。要するに自分に自信がないのだ。

私がJCだから、その存在が珍しくて注目される。それがどうしようもなく悔しい。

ブランドにあぐらかいてドヤ顔なんてしたくないし、私の年齢がいくつであろうと評価されるものを本当は書きたい。

だけど書いても書いても貰うのは「JCで〜」「中学生なのに〜」だ。

肩書き無しで私のことを評価してもらえたら、そんな風に思ってしまう。

評価して頂く側の立場だから、こんなのはただのわがままであると分かっているのだが、やっぱりどうしても悔しくて悲しくて仕方ない。

メンヘラ.jp( http://menhera.jp/ )のライター仲間である皆さんのように、人の目を惹くような、面白くて鬱でもゆるく読めるようなものは私は書けないし、たとえ3000字を越えようと何度読み返しても中身が薄っぺらく感じてしまう。

仲間も編集者も、皆さんお優しい方だから、たくさん褒めてくれるし励ましてくれるけど、私はこんなんじゃダメだと思うし、まだまだ読者様に満足して頂けるものは書けていないと思う。

今までメンヘラ.jpで公開された過去の私の記事を読み返しても、全然面白くない。

どこにでも転がってるようなものにしか思えない。

この世で唯一の、私にしか書けない!そんなものが欲しいのに。

どうしたら皆さんの望むものが書けるのか、私が満足するものが書けるのか、さっぱり分からない。

ただ字数を稼ぐだけなら誰にでも出来るのだ。

欲しいのは、たとえ規定の1500字ギリギリの短い記事でも全て伝わるもの、そして面白さ、気楽さだ。

私の頭は本当に子供か?というくらい堅い。

新たな視点で物事を捉え、豊かな発想、柔軟な思考、知識、表現力。

そういったものが私には足りない。

こういうのは何をしたら鍛えられるのだろうか?

それすら分からず、日々ネタを探し、どうにか読み手に伝えようと試行錯誤しているわけだが、どんな長文を書いたってこれっぽっちも伝わっていない気がしてならない。

私はまだまだ勉強不足だ。

これからも精進していきたい。

 

 

では、また次回。

眠りすぎ姫

2日連続で、夕飯も食べずに半日寝てしまった。

前まで3〜4時間おきに目が覚めてしまい、深夜なんて眠気がなくて朝にならなきゃ眠れなかったのに、どういうわけかここ最近は夕飯前、つまり夜6時頃から早朝まで寝てしまっている。

何度も両親が起こしにくるが、私は起きない。

それどころか、起こされた記憶など一切ない。

そのせいで薬も飲めず、朝起きて慌てて飲んでいる。

なんなんだろう。

ちょっと極端過ぎやしないか。

もっと普通に、ちょうど良い感じで眠れないのかい、私の身体は。

しかもこれだけ寝たというのに、夕方になるとまた眠くなって寝てしまう始末だ。

全く、いつから私は眠り姫になったというのだ。

昨日も今日も休日だったから良いものの、平日までこれじゃ困る。

過眠と、頭痛やらなんやらのその他体調不良。

本当に助けてほしい。

コロコロ生活サイクルが変わるから、あまりにも慌ただしくて身体が追いつかない。

一体なにをどうしたらこうなってしまったのだろう。

せめて夕飯と風呂と身支度を済ませてから眠りたいものだ。

また明日から平日が始まる。

休日ならのんびり起きて風呂にでも入るが、平日ならばそうはいかない。

もし昨日今日みたいに身支度を一切せず寝てしまったら、朝起きて飯を食うどころか風呂に入る時間なんてあるわけないし、着替えて鞄に教科書を詰め込んで家を飛び出すしかない。

下手したら遅刻だ。

 

それ、嫌過ぎる。

 

なんというか、人として最低限の生活すら出来ていない気がする。

気がするというか実際そうなのだが。

それだけは避けたい。

なんとしてでも今日は飯を食って風呂に入りたい。

睡魔に負けないと良いのだが…。

もはや自分で自分の身体を操れなくなってきているから、不安でしかない。

ネジがいくつか飛んでてもおかしくないだろう。

まあ事実、ADHD持ちであるからネジは数本足りないのだが。

 

どうにか普通の生活を送るためにも、お医者様には全力で効く薬を処方してもらいたいところだ。

未成年だからとコンサータを処方してもらえないのはいささか辛いものがある。

ストラテラ、なんの効き目もねえじゃねえか。

ツムラも効かない。

薬がないと人並みの生活が出来ないのなら、早く薬をぶち込んでどうにかしてもらいたい。

これ、発想が完全にヤク中みたいなところがあるが、まあ仕方ない。

これがないと普通になれないのだから。

普通じゃなくても私は良いと思うが、社会は普通を求めるし、なんなら普通以上を求める。

会社へ入社するときなんて、良い例じゃないか。

あいつら、処女の床上手を求めてきやがる。

控えめに言って馬鹿なんじゃないだろうか。

こんなことを平気で言ってくる社会に、「発達障害は天才も多い」なんてことを平気で抜かしてくる社会に、何ひとつ他人より秀でてない無能な私が求められるわけがない。

だからせめて、人並みになろうと努力するのだ。

中にはその努力を平気で踏みにじってくる輩もいるが。

もっと普通以下でも生きやすい社会にならないものだろうか。

精神障害者手帳でも取れたらいいのだが、まあADHD程度じゃ取れない気がする。

障害者でありながら、健常者と障害者の間くらいに位置する人間は本当に生きづらい。

挙げ句の果てには「鬱?発達障害?そんなの甘えだろ」なんて言う奴もいる。

理解がなさ過ぎなんじゃないか、この国。

 

先日の成宮寛貴さんの件でも、本当にやってないなら最後まで戦え云々言う人間が大勢いた。

これ、いじめられても不登校にならず立ち向かえって言って自殺に追い込むのと同じなのではないだろうか。

本当に呆れてしまう。

結局この国での正義は、いつだって″いじめる側″なのだ。

正義は犠牲から成り立つ。

だから私のような、人と違う「異端者」を皆嫌い、だけど表立ってやる勇気もなく、影でコソコソと悪口を叩く。

そして、「正義のヒーロー」とやらが、堂々といじめ出す。

それに皆賛同し、「あいつがやってるから」「みんなやってるから」と自分たちもだんだんと表立っていじめ始める。

だからこそ、見て見ぬ振りも同罪なのだ。

教師に助けを求めたって、誰かが教師に告げ口をしたって、いじめアンケートとかいう訳のわからないことを行い、みんなの前に立っていじめは良くない〜とかなんとか、お説教(笑)を言うだけだ。

こうすれば形式上、″いじめ対策″を行なったことになるから、もし何か問題が起こっても言い訳が出来る。

いじめアンケートを行うのは、きっといじめ対策をしたという物的証拠になるからだろう。

あんなの、嘘しか書かない人が大勢だからなんの意味もない。

こんなんだから、教師に助けを求めるとさらにいじめは悪化するのだ。

よくも教師に言いつけたな、と。

そういう、中途半端にヒーローぶって助けようとする姿勢もいじめられる側からすればムカつく。

やるなら教育委員会とかもっと権力のあるでかいところにやってほしい。

絶対的な何かがそこにないと、いつまでも終わらないのだ。

教師も、「いじられキャラ」と「いじめられっ子」の違いくらいいい加減見分けられるようにならないのだろうか。

そのせいで私は8年半やられてきたというのに。

何も変わっちゃいなかった。

 

だから私は学校という場所が、大嫌いだ。