lemonの掃き溜め

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子供の泣き声と聴覚過敏

最近、Twitterを見ていると育児垢のような方々が「子供が泣くのは仕方ないこと!」と声高らかに主張しているのをよく見かける。

そういった話が持ち上がるごとに、ぼくは度々申していることなのだが、子供が泣くのは当たり前だということは重々承知している。が、苦手かどうかというのはまた別の話である。ということだ。

そりゃあ誰しも子供の頃は幾度となく泣いただろう、泣かない子供など居ない。

ただ、だからと言って理屈ひとつで苦手なものを克服出来るかと言えば別の話なのだ。ぼくだって流石に苦手と言えど、街行く人々を眺め泣き叫ぶ子供が居る度に目くじらを立てるような大人気ない真似はしないし、大抵の親御さん達は泣き止ませることに奮闘しているだろう。

しかし、中には泣き止ませるどころか放置するような親が居るのも事実だ。

確かに子供が泣くのは仕方ないと言った。だが、仮にも公共の場であるショッピングモールやフードコートなどで、周りに響き渡るほどの声量で泣かれてしまうと正直な話耳障りなのである。

もちろんそういった子供を見て微笑ましく思うような人も居るだろうが、その逆も然りであって当然苦手な人も居る。

そこで必死に泣き止ませようと奮闘している様子ならば多少は目を瞑るが、何も気にせず放置している親を見ると如何なものか、と思う。

 

少し話は変わるが、皆さんは聴覚過敏というものはご存知だろうか?

詳しいことは各自ググって欲しいのだが、簡単に言うと感覚過敏と呼ばれるものの一種である。発達障害を持っている人に多く、ぼくもその1人だ。

感覚過敏とは、光や音をはじめとする特定の刺激を過剰に受け取ってしまう状態のこと。逆に刺激に対する反応が低くなる感覚低反応というものもあるが、ここでは感覚過敏についてお話しよう。

感覚過敏があると多くの刺激を過剰に受け取ってしまうことにより、ストレスが増したり身体的・精神的にも負担が掛かってしまう。

このように感覚に過度な偏りが生じることで、日常生活に支障をきたす場合があるのだ。

感覚過敏にも色々あり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などがある。

今回はそのうちのひとつ、聴覚過敏についてご紹介しよう。

 

聴覚過敏とは何か

聴覚過敏とは、具体的に

 

■音がやけに大きく聞こえる、響く

■周囲の全ての音が等しく聞こえる

 

などの症状があり、今回のテーマである「子供の泣き声の不快感」では音の大きさについてが大きな要因だろう。

具体的には、賑やかな場所に居ると疲れやすいといった症状がある。聴覚過敏の症状が強い場合、耳の奥が痛くなったり、場合によっては頭痛が起きたりと、身体的な痛みも伴う。

また、人によって気になる音は違うが、女性や子供の甲高い声、休み時間のチャイム、合奏の音、掃除機やジェットタオルの音などが挙げられることが多い。

 

実際、ぼくはこの聴覚過敏があり、人の話し声や、女性・子供の高い声、食器同士が触れ合う音などが苦手だ。上手く表現しづらいのだが、脳みそを直接掻き回されているような、ザワザワとしたノイズのような不快感がある。

場合によっては吐き気や頭痛、目眩、立ち眩みが起こる場合もあるし、不安やパニックを起こしてしまうこともある。

 

先述したように、子供が泣くのは仕方ないというのはもちろん分かっている。が、しかし、世の中にはこういった症状に悩まされているが故に、子供の泣き声が不快に感じる人も居るということを知っておいてほしい。

子供を育てるのは大変だろうし、そんなの子供を産んだことがないぼくにだって分かるが、本人の努力ではどうしようもないことで苦手という場合もあるのだ。

此方としてもイヤフォンなどを付けてなるべく音を防ぐようにしているが、やはり四六時中イヤフォンを付けているわけにはいかない。

そういった場所で、あまりにも泣き喚く子供を放置されると少々辛いものがある。

なので、無理に泣き止ませろとは言わないし、世の親達が苦労して泣き止ませようとしているのも知っているが、「子供が泣くのは当たり前!」「子供が泣いてることを不快に感じるのってどうなの?」「育てるのだって大変なのよ!」といったことを言われるのは心苦しいし、どうかそういった人が世の中には少なからず居るということも頭の隅に入れて頂けると有難いな、と思う。

 

全ての人にとって、生きやすい世の中になることを願う。

 

 

それでは、また次回。

最後まで目を通して頂き、有難う御座いました。

努力が出来ないのは甘えか

ぼくはコツコツとした地道な努力が出来ない。本当に出来ない。子供の頃からずっとそうだ。

自分からやりたいと思ったことも、やらなきゃいけないことでも、出来ない。

驚くほどに集中力もやる気も皆無なのだ。( まあADHDと言われればそれまでだが )

 

幼稚園児の頃、父親が「将来は何になりたいの?」と聞いてきたことがある。それに対し、「ずっとゴロゴロしてグダグダしたい!」と答えたらしい。筋金入り過ぎる。

 

まあそんなわけで根っからの怠け者なわけだが、この世は結果主義なので天才でも神童でもないぼくは普通に落ちこぼれである。

勉強も運動も出来ない、音楽を聴いたり絵を描くのは好きだが別にセンスがあるわけでもないし、なんならむしろ歌も絵も下手だ。好きこそものの上手なれ、と言うけど、あれは努力家にだけ当てはまるものであって、どんなに好きでも怠け者なら上手くならない。当たり前である。

学問スポーツ芸術、ついでに言えば脳みその作りや人間としての出来も落ちこぼれであるが、一応人間なのでそれなりに悩んだりもするわけだ。

母親に今まで幾度となく「今までなんの苦労も努力もしたことないくせに」と言われてきた。それに対してぼくは何も言い返せないし、事実結果の出ない努力など他人からすれば努力ではないのだ。分かっている。

それでも、結果が出なくとも、ぼくとしてはぼくなりの努力をしているつもりなのだ。

それを実の親に全否定されるのはなかなか辛いものがある。それでも言い返せないし、否定出来ない。だってぼくは怠け者だから。

優しい友達はぼくを頑張り屋だと、努力家だと言ってくれる人も居るが、どうもひねくれ野郎のぼくはそれを正直に受け止められない。

どんなに慰められても、結局ぼくが怠け者で結果が出せないという事実は変わらない。気休めにもならない。

そんな自分のことが大嫌いだ。こんな甘ったれている自分のことが、心底嫌いだし軽蔑してしまう。

だけどいくら嫌ったって憎んだって、意志の弱い人間はそう簡単に変わらない。ずっと怠け者のままだ。

変わろうと思ったって変わらなかった。その度に嫌になるが、それでも何も変わらない。

自分がADHDだと知ってからはほんの少しだけ和らいだが、結果が出せない事実は同じである。

努力が出来ないのをADHDのせいにしてしまう自分も嫌だし、それでも多少なりとADHDのせいもあって、でもやっぱり自分の気持ち次第だとも思う。

そんな堂々巡りを今までの人生で何度もしてきたし、その度に言いようのない苦しさに苛まれて泣きそうになった。泣いたって何も変わらない、これじゃまるで迷子になった幼子だ。

自分はADHDなんだ!と割り切ってしまえたらいいが、世間はそれを甘えと言うだろう。

世の中の大多数がそうだと言ってしまえば、真実でなくともそれは事実へ変わる。

この社会で生きていく為には丸っきり自分だけの力では無理があるし、多少なりとも周囲に認められなきゃ孤立してしまう。人間社会は群れるものだ。生活の様々が成り立たなくなってしまうだろう。

 

自分は「出来ない」なのか「やらない」なのか、それもよく分からない。

ぼく個人としては「出来ない」だと思っているが、周りからすれば「やらない」に見えるだろう。ならばそれが事実だ。

 

「出来ないとか言ってないで行動しろ!」

 

まさにその通りだと思う。出来ることならぼくもそうしたい。出来ない。それは「やらない」なのか。もうよく分からない。

こうやって言い訳がましい自分も嫌いだ。

 

前にどこかで、『努力出来ない奴は「出来ない」んじゃなくて「やらない」だけ。それは心のどこかで「自分はまだ大丈夫」と思ってるから』というのを見た。

ぼくとしては怠けてしまう自分が嫌で嫌で堪らないし、何をやっても駄目でADHDだなんだと言ってしまうのも嫌だと思っていたが、実はまだ大丈夫だと思っているのだろうか。

もう自分のことさえよく分からなくなってしまう。

ただ甘えているだけなのだろうか。

 

 

生憎ストラテラは思ったような効き目は無かったが、コンサータは驚異的だった。脳を強制的に覚醒させてフル回転させるので、普段の自分では考えられないほどやる気も集中力も出るし、注意力散漫にならないので安心して街を歩ける。

高校の課題などはコンサータが無いと期限内に終わらないので服用しているが、出来ることなら日々の生活でも服用したい。

医師曰くぼくはあまり身体が大きくないし、年齢的にもあまり強い薬は投与したくないとのことで出してもらえないが。

 

 

努力が出来るようになりたい。口だけじゃなく実行出来るようになりたい。実行しても続けられるようになりたい。すぐに弱ってしまうこの身体も心も嫌いだ。甘えているのは重々承知している、それを変えられないのも悲しくて堪らない。

外面だけは良いのか友人には「有言実行だよね」「頑張り過ぎだよ」などと言われるが、別にそんなことないのだ。どんなに頑張っても結果にならなきゃ意味が無い。

世の中過程を見てくれる人間などそう居ないものだ。

自分の怠け癖が甘えなのか、ADHDだからと割り切っていいものなのか。

そんなこと言ってないで行動しろ!というのはもっともだろう。ああほらまた堂々巡りだ。

もう疲れてしまった。そんなことを毎日考えるのも辛い。全部自分が悪いと思ってしまう。なんで生まれたんだろうなぁ。出来損ないは出荷しないで廃棄してくれれば良かったのに。

自己肯定感の養い方

最近は忙しさとストレスに追われ、めっきり絵を描くことが減った。このブログの更新頻度だって低いままだ。

やはり期間が空けば技術は落ちるものだし、我ながら下手になったな、と思う。

下手になっただけならまだしも、何も生み出せなくなってしまったのは悲しい。発想力が貧しくなってしまったのだ。

ぼくは自身の創作や世界観でしか自己を肯定出来ないし、表現することも出来ない。

無くなってしまったなら吸収しようと周りに目を向けてみるものの、手に余るばかりで弄んでいる。

追い求める美しさは次第に己へと向き、自己嫌悪に苛まれる日々が続いている。

何も生み出せない自分に価値など無いのだ。

だんだん昼間に起きることが困難になってきて、最近は殆ど寝て過ごしている。

死にたいと思うことも減った。その代わり、何かを願うことも減った。何も感じることが出来ない。ただただ虚無、空白、空っぽである。中身の無い思考を抱えて生きるのは、案外辛い。

離人感は増すばかりで、抜け出すことも増えた。

己の存在を問い、操作が困難になった肉体を呪い、行き場の無い精神は彷徨っている。これじゃまるで亡霊のようだな、と半ば自嘲気味だが、我ながら笑い事では無いな、とも思う。

自分が誰なのか分からないし、この感覚を上手く伝える術が無いので周りに理解されることもあまり無く、ただ与えられた課題を淡々とこなすだけになってしまった。こんなの、ロボットとなんら変わりないじゃないか。

自身が何を望んでいるのかさえ見失ったので目標を立てることも出来ず、なんとなく流される日々は酷く不自由だ。金魚すくいですくわれた金魚のように息苦しい。

数ある多くの中のひと粒に過ぎないことはとうに自覚していたにも関わらず、オリジナルを見つけようと足掻いている。その姿勢こそありふれたものだと思うが、分かっていても悪足掻きは辞められない。

ぼくは何を目指しているのだろう。何も分からなくなった。

自分一人救えない人間が、人を救いたいだなんて烏滸がましいだろうか。

本当に助けてやるべきなのはぼくなのに、それを無視し続けた代償なら、身をもって償うべきだろうか。

愛してやれなくてごめんなさい。ぼくはぼくを呪うことしか出来ない。

愛でラッピングした憎悪を与え続けたのは、他でもないぼく自身なのだ。

ガラスのお城

どんなに客観的な立場で物事を見ても、結局は自分のモノサシでしか測れないのだと思う。

最初から知らないことは分からないままなのだから、どんなに足を踏み入れたって分からないのだ。

ぼくと他人は、きっと一生分かり合えない。それは他人から見たぼくも同じことだろう。

自分と他者を混合してはいけない。そんな簡単なことさえ、つい忘れがちになってしまう。

でも、どんなに理解出来ないことでも、現状起きている物事をそのまま捉えることは出来る。

たとえどんなにぼくが「AがBになった」という現実を受け入れられなくても、その事実は認識出来る。

しかし、受け入れることと認識することをごちゃ混ぜにしてしまっている人間がとても多いようにぼくは感じる。

別に理解されなくていい、共感や同情をされなくてもいい。ただ、ぼくは現実を認識してほしいのだ。

そして、認識した情報から、原因や解決策を導き出してほしい。あわよくば、その手助けをしてほしい。

何より忘れてはいけないのが、差し伸べられた手を取る側の人間が偉そうにふんぞり返ってはいけないということ。助けてもらえることは、当たり前ではないのだ。

当たり前でないことを、己を棚に上げ当たり前だと飲み込むことは、とても愚かだと思う。

簡単なことほど、忘れてしまうのだろうか。

どうか思い出してほしい。

自分に酔っ払って、己を過信しないこと。

自分が思うより、他人は自分を見ていないこと。

自分が思うより、他人は自分を見ていること。

たとえ世界に絶望しても、1%くらいは温かい場所があるということ。

己と他人は、全くの別物だということ。

案外、簡単に死んでしまうということ。

案外、簡単に産まれてしまうということ。

大変な思いをして積み上げた積み木は、手のひらひとつで壊せるということ。

そして、一度クシャクシャに丸めた紙は、二度と元の綺麗な紙には戻らないということ。

 

なんて、そんな寝言。

追憶と欠片

昨夜、なんとなく憂鬱な気分に揺られて独りぼんやりとベッドに横たわっていた時、ふと思い出したことがある。

それは、昔からぼくが大切にしてきた感情だった。

ぼくには、とある憧れの人が居る。本当に綺麗で、儚くて、それでいて芯のある強い人だった。

初めてその人がステージの上に立っているのを見た時、スポットライトだとか、そんなものを抜きにして、凄く凄く輝いていたのだ。

その姿を見た時、軸が揺さぶられて自然と涙を流した記憶がある。

何か感動する歌を聞いたわけでもないのに、意図せずとも両の目からボタボタと雫が落ちた。

純粋に、美しいと思った。

雑誌のインタビューなどでその人がどういった環境で育ったとか、どういう気持ちでその仕事に就いただとか、そういうことを知っていたので余計に涙が出た。

自分が「なりたい」と望んだ姿に、努力して努力して、今こうしてステージに立っているのだと思うと、どうしようもなく眩しかった。

ぼくは、そうなりたかったのだ。

自分が目指した姿に努力して辿り着く。そんな、一見単純そうで、凄く難しいことにぼくは憧れていた。

昔から努力嫌いで、何をするにも諦めがちで、大体のことは「まあいいや」「どうでもいい」「興味が無い」と一蹴りにしてきた。

出来ないことを出来るようになろうと思ったことなんて無かった。出来ないものは出来ないと思っていた。

自分に自信が無くて、どうせ無理だと思っていた。

だからぼくには、その人が本当に綺麗に見えたのだ。

 

ぼくも、その煌めきが欲しい。

 

そう思った。

その煌めきに憧れて、ぼくはその時ちょうど諦めかけていたことを見失わずに済んだのだ。

 

なのに、どうして今まで忘れていたのだろう。

こんな大切な感情を、まるで何事も無かったかのように忘れていた。

いくら憂鬱に揺られ希死念慮に襲われても、絶対にぼく自身を見失わないでいられた魔法だった。

それすら忘れてしまうほどに、自分が失われていたのかと思うと正直恐ろしい。

これを思い出したことによって、少し楽になった。

もしかしたら、また見失ってしまうかもしれない。そうした時に、また見つけられるようにここに記した。

いつになるか分からないけど、その時を迎えた自分はきっと、あの人と同じように星になれているはずだから。

ぼくを見殺しにした大人たちは過去を正当化する

ふと、昔のことを思い出した。虐められて、大人たちに見殺しにされたことを。

ある人はこう言う。「そんな過ぎたこといつまで引きずるの?」と。「辛いことがあった分だけ強くなれるんだよ。」と。

でも、そのセリフはやられた本人が言わなきゃ意味が無い。

それに、辛いことがあった分だけ強くなれるなら、ぼくは今頃相当強いメンタルの持ち主だと思う。「考え方次第だよ」と言うが、それだって結局本人が言わなきゃ意味が無い。

何より、そういうセリフを言うのは僕の場合大抵その見殺しにした大人たちだ。ぼくのことを殺した分際で何を言う?というのが正直なところ。

責任逃れしたいだけじゃないか。ぼくが助けを求めたって聞こえないふりしてたくせに、いざ自分たちの都合が悪くなれば大急ぎで申し訳程度の助け舟を出す。

なんなのだ、そんなんで教育者を名乗るとは余程良い身分なのだな。死んで詫びてくれ、といった感情しか湧かない。

加害者や傍観者の中では全部終わったことになっているのだろうが、ぼくにとっちゃ全く終わっていない。

未だに夢に見るのだ、嗤われて貶されて無視されて殴られるあの光景を。その度に飛び起き、恐怖に震えて独り泣く。

ぼくだって好きで思い出しているわけではなく、もう記憶にこびりついて離れないんだ。どうしようもないのだ。

普段から憎しみに満ちているわけではないけれど、こうしてふとした時に思い出し、殺意がフツフツと湧き上がる。

ぼくは根暗で陰湿な人間なので、許すだなんて到底出来ないだろう。

自ら手を下すなんて馬鹿な真似はしないが、出来るだけ長く苦しんで死んでほしい。絶望と悲しみに暮れてほしい。そう願うばかりだ。

きっとこの記憶は、不快感は、恐怖は、一生拭えないし消えないだろう。

繰り返し

何度も何度も同じことを考える。毎日、毎日。

死にたいとは思うけれど、すぐに飛び降りてしまえるような行動力は無い。けれど生きたいと願うような生への執着も無い。

何故生きているのだろうと問うが、生まれてしまったから、としか答えられない。

決してこの答えは花丸ではないのだろうが、それでも事実だ。

下らない人生だと幾度と無く自分自身を嘲笑した。生きている実感が全くと言って良い程無い。

ぼくの16年間は無駄だったのだろうか。あと4年経ったってこの苦しみから果たして解放されるのか? それすら分からない。

「見えない未来のことなんか考えたってしょうがないでしょう。」というのは頷けるが、未来というのは現在の延長線上に存在する。現状苦しくて仕方がないし打開する術も無いのに、それが続いていく恐怖。もしかしたら、この苦しみからは解放されないかもしれないのに? ゴールが見えないまま、もしかしたらゴールなんて最初から存在しないかもしれないのに、我武者羅に走り続けるマラソンなんて御免だ。

いっそ、と死を望んだことは数多と存在するが、死ぬ勇気なんてどうせ無いのだ。

痛みも苦しみも恐怖も無く、眠りに就いたらそのまま目が覚めないで欲しいと願う。

 

「お前より辛い人間はたくさん居るんだぞ。」とか、聞き飽きたんだ。

辛いと思うことさえ許されないなら、もうぼくが生きてる価値など無いも同然だろう。存在していることすら馬鹿らしくなる。

「神様は乗り越えられる試練しか与えない。」とか、馬鹿らしくて笑いが込み上げてくる。じゃあこれまでその " 試練 " とやらを乗り越えられずに自らの命を投げ捨てて逝った者達は、なんだったと言うのか。馬鹿にするのも大概にしろ、死んでいった人間を踏みにじるようで胸糞が悪い。

 

誰でも良いから助けて欲しい。そう声を上げたことは幾度と無くあるが、どれも届かぬ願いだった。ぼくは " 無かったこと " にされたのだ。

何故生まれたのだろうと、また、考える。答えは同上だ。こんな堂々巡りに意味が無いことくらい理解している。それでも、為す術無くただ存在しているだけの現状、思考を巡らせることしかやることが無いのだ。

もう、疲れたのだ。誰でも良いから助けて欲しい。もう自分を否定し続けるのも疲れた。嗤われるのも疲れた。嘲笑に愛想笑いを返すのも疲れた。ぼくを殺すのも、疲れた。