lemonの掃き溜め

日々の生活や考え事、妄想などをただ綴ってるだけ。

正義

皆さんは、何かを判断する上でどういったことを考慮し、最終的な判断材料にするだろうか?また、どういったものは判断材料に含まないよう気をつけているだろうか?

俺は、物事を正しいか否か、で判断しているつもりだ。そこになるべく感情を入れないようにしている。

感情とは刻々と移り変わるものであり、今日の俺が考えていることを明日の俺が考えているとは限らない。もし、何か重大な決断をしなければならないとして、一時の感情で決めてしまうと後々後悔することになってしまうかもしれない。

人生において後悔とはあまりすべきではないし、無駄に増やすものでもない。何より、一度進んでしまったものはもう後戻り出来ないのだ。俺はそれが嫌なので、一時の感情に流されて物事を判断しないよう心掛けている。

もちろん、必ずしも正しい判断をしたからと言って、その正しさは自分にとっての正しさであり、他者からすれば誤りかもしれない。だがしかし、人生において全ての決定権は自分にあるのだ。他者の正義など関係のないことだろう。

 自分にとって、本当に正しいと思えることを選択することが重要だと俺は思う。

ただし、この「物事を感情ではなく正しいか否かで判断する」というのには、ひとつ落とし穴がある。

それは、必ずしも正しい判断をしたからと言って、幸せに繋がるとは限らないからだ。

もちろん、幸福の定義は人それぞれであり、正しい選択をすることこそが幸福である!と言うのであれば、その人は実に幸福なのであろう。それはそれで大変素晴らしいことだと思うし、無理に捻じ曲げる必要性は無い。

しかし、この「自分にとっての正義を追い求める行為」というのは、少なからず他者からの反感を買うものだ。

例えば、今これを読んでいる貴方が学生だったとしよう。クラスで虐められている人が居たとして、それを貴方は止められるだろうか?

もちろん、虐めは良くないことだし、被害者を救い出すことが出来ればそれはとても立派なことだ。

しかし、現実とはそう簡単なものではない。

被害者を庇ったら、今度は自分も虐めのターゲットになってしまうのではないか?もしかしたら被害者を救うことも出来ず、なおかつ自分も虐めの被害者に加わるだけなのではないか?

そう思ってしまうのも無理はない。クラスに充満した得体の知れない団結感(これを同調圧力とも言う)や、いつ自分がターゲットにされるか、という恐怖心。そういった恐怖が、自分の正義を邪魔することもあるだろう。

それでも被害者を助け出すというのなら、素晴らしいことだと思う。しかし、先ほども懸念したように、被害者は助かったものの次は自分がターゲットになってしまったら?または被害者も助からず、更に自分も次なる被害者になってしまったら?

もし、それで耐え切れないくらい辛く苦しく、鬱状態になり、自殺を考えるほどにまで追い詰められてしまったら?

それは果たして、幸福と言えるだろうか。少なくとも、俺はそれを幸福だとは言えない。

確かに被害者を助けようとする心は素晴らしいことだが、他者の幸福の為に自分を犠牲にするのは、本当に正しい選択と言えるだろうか?

全ては自分本位であり、自己中心的な考えというのはあまり悪いことだと俺は思わない。

確かに、自分のやりたいことを好き勝手やって他者に迷惑を掛け放題なのは如何なものかと思うが、自分には何の関係もない他者を、それこそ虐められていようが自分には何も害がない他者を助ける義理がどこにあるだろうか?

正義とは犠牲の上に成り立つものであるが、しかし犠牲ばかりを生んで誰も幸せになれないのであれば本末転倒だ。

ならば、他に何かやるべきことがあるだろう。

例えば、親や教師、責任者、教育委員会などに報告するなど、他にいくらでもやりようがあるのだ。

ひとつの方法に固執するのは、あまり賢いやり方とは思えない。

自ら身を差し出してまで他者を助ける行為は正義とは言わない。単なる自己犠牲と、自己満足だ。

俺は昔、そのことに気付かず己の心身をボロボロになるまですり減らしてしまった。その傷痕は今も残っているし、深く深く根を張った固定観念はそう簡単に消えるものではない。

俺は昔の自分が間違っていたとは思わないし、人として正しい選択を出来たことを誇りに思っている。しかし、それが幸福だったかと言えば、答えは否だ。

むしろ、周りの人間と同じように、周囲に流され、傍観者であった方がきっと幸福だっただろう。

そういった意味では、正義は犠牲の上に成り立つものだ、というのはその通りだと思う。

皆さんも、何かを決断する場合はよく考えてほしい。傷を負ってでも己の正義を貫くか、己の幸福を願うか。

別に俺は己の幸福を望むことを悪いことだと思わない。それもまた、ひとつの正義だろう。

ただひとつ言えることは、周りに流され、一時の感情に任せて曖昧な判断をし、後悔してほしくない、ということだ。

どうか皆さんに幸あれ。

 

 

では、また次回。

分からない

前回、離人症もしくは解離性同一性障害の疑いがあることを書いたかと思います。(正確にはそのような症状があり、後日通院時に主治医にそのことを話すと、離人症もしくは解離性同一性障害の疑いがある、と言われたのをTwitterにて報告しました。)

やはり、自分の中に自分ではない何者かが存在しているような気がしてならないのです。

 

昨日、友人と焼肉を食べに行ったのですが、普通に美味しくご飯を食べている中、ふいに「私」が現れました。

いや、正確に言うと、今になって「ああ、あれは『私』だったな。」と思ったのですが。

「私」は、一人称からも分かる通り、ごく普通の女性です。

私は、何気なしに焼かれている肉を見て「可哀想(笑)」と言いました。今思えば何ひとつ可哀想だなんて思わないし、そもそもそんな脳内お花畑な思考は否定派の人間なので、今の俺なら絶対に言わないようなことなのですが。

何故かその時は、何の違和感もなくするりと言葉が口を通り抜けました。

今思い返すと心底気持ち悪い発言なのですが、(人は動物を殺し、食すのは生きていく上で当たり前のことであって、自ら肉を焼いて食っているにも関わらず、その行為に対し「可哀想」などと同情や哀れみの目を向けるのは矛盾していると思うので。)その時は本心(?)で言ったような気がします。

 

こうして自覚がないうちに、本心とは全く違うようなことが口から次々に出ていくのです。この程度の発言ならまだ良いのですが、人の悪口だったり、何かの返答にこういったことがあると、「この前と言ってることが違うじゃないか!」といったことになりかねないので(実際にそういうことは何度もあった)、結構困っています。

主治医が言うには「必ずしも、なんでもかんでもすぐに病気や障害とは言えないし、特別な治療法は無いので、私は放置するのが一番だと思っています。」とのことなので、俺も放置する方針ではありますが、やはり不便なものは不便です。

成長するにつれ、良くなることが大半だそうで、早く良くならないかなぁ。と願うばかりです。

 

 

では、また次回。

お前は誰だ?

皆さんは、時々自分が誰だか分からなくなることはありませんか?

俺は、あります。それはもう、ずっと昔から。

ふいに、いつも見ている家のカーテンが、「あれ、カーテンこんな色だっけ?」とか。「あれ、お父さんってこんな人(見た目)だっけ?」とか。

ふとした瞬間に、そういった身の回りの当たり前の景色が疑問に変わったりします。

この身体は「俺」でしかないんだけれど、中身がどうにも俺ではない他人に思えてならなくて、だんだん左右の手脚の感覚が分からなくなって、指先ひとつ動かすのさえ億劫になって、呆然とただそこに在るだけになってしまうのです。

これは何かの精神疾患だったりするんでしょうか。

初めてこの症状(?)を実感したのは、もう随分と昔のことです。確か幼稚園年長くらいだったかなぁ。

そんな毎日のように頻繁に起こるわけではないけれど、日常のふとした瞬間に、そういった感覚に陥るのです。

誰かに自分の身体が乗っ取られているような、俺が俺ではなくなってしまったような、そんな感覚。

そして、そういう時はいつも決まって悲しくなります。理由は分からないけれど、只々どうしようもない絶望感や喪失感の波に飲み込まれて、深海に沈むような深い哀しみに暮れます。死にたいだとか、そんな感情ではなくて、どちらかと言うと消えたい。暗い海の底に沈んで、泡になって消えてしまいたいような気持ち。

でも、暫く呆然としていると、フッと意識が浮上するのです。そうしたら、またいつも通りの日常。何も変わらない、いつもの俺。

この感覚は一体なんなのでしょう。何かの病気だったりするんですかね。

何か分かる方が居たら、教えて頂けると幸いです。宜しくお願い致します。

 

 

では、また次回。

死ぬ勇気

ここ1ヵ月ほど、学校と仕事を繰り返しながら泣くか寝るかのどちらかしかしていない気がする。

特に理由は分からないけれど、死にたくて死にたくて堪らないのだ。

自殺の方法について調べてみたり、遺書について調べてみたり、薬を飲んでみたり、首にネクタイを括りつけてみたり。でも、どうしたって死ぬ勇気なんか無いのだ。生きていく根性も無ければ、死ぬ勇気も無い半端者。どうしてこんなにも、生きるということは辛く苦しいのだろう。自分という人間が憎くて、憎くて、殺してしまいたくて。

何をしても楽しくない。好きだったゲームも漫画もアニメもキャラクターも、興味が失せてしまった。一体何の為に働いているのだろう。一体何の為に学校へ行っているのだろう。

何の為に、俺は生きているのだろう。

毎日が苦痛で仕方なくて、来る日も来る日も泣きながら「今日こそ死んでやる」と思うのに、いつだってネクタイに伸ばす手は恐怖で震えているのだ。どうして死ぬということは、こんなにも怖いのだろう。もう何度も自ら死を望んだはずなのに、いざ行動を起こそうとすると怖くて堪らなくなって、涙が溢れて動けなくなる。

生きることも死ぬことも出来なくて、ただ毎日を無駄に消費して、「死にたい」って泣き喚くようなこんな人生に、一体何の意味があるのだろう。

早く楽になりたい。運良く交通事故に遭ったりしないだろうか、などと、己の死すら他力本願だ。

死を願う度に、頭を過ぎるのは母さんの顔だった。母さん、ごめん。こんな出来損ないで、失敗作で。毎日死を願うような人間で、ごめんなさい。

明日こそ死ねたら良いな、なんて、昨日も似たようなこと考えて眠った気がしたよ。

辛いなぁ。明日こそ、なんて。もう、寝よう。

性別違和

お久しぶりです。

以前、Twitterにてポロッと「そういえば性別違和あるって話したっけ?」と何気なく零したところ、「えっ何それ、そんなの知らない」という反応をいくつか頂き、「じゃあ気が向いたら今度ブログで詳しく話すわ〜」と言ったキリでしたので、今日はその話をしようと思います。

 

 

そもそも「性別違和」とは何か

 

以下、引用。

「性別違和」とは簡単に言うと、「決められた性別」と「本人が経験している性別」が違う状態のことです。

 

例えば、

戸籍上は「男性」でも、自分自身は男性ということに違和感を感じている。

といった感じ。

性別に違和感を感じているので「性別違和」ですね。

 

性同一性障害とは何が違うの?

性同一性障害と同じ?と思うかもしれませんが、「性同一性障害」と「性別違和」は少し違うものです。

 

性同一性障害とは簡単に言うと、

「生物学的な性別」とは「反対の性」だと思う、ということ。

 

例えば、

生物学的には男性だけど、自分自身は女性だと思う

といった感じ。

 

なにが違うの?と思うかもしれませんが、例えば次のような場合を考えてみてください。

 

戸籍上は「男性」だけれども、男性ということに違和感を感じている。けど女性になりたいかと言われれば、それも違う気がする。

 

この場合、性同一性障害ではないですが、性別違和ではありますよね。

( 引用元:https://www.cocolabo.me/seibetuiwa-towa/ )

 

私は、小さい頃から「男になりたかった!」と思うことが多々ありました。

特に幼少期は喧嘩っ早く、クラスの男子としょっちゅう喧嘩したりと、お恥ずかしい話ですがかなりおてんばな子供だったのです。

しかし、小学校高学年になり、ある時「どう足掻いても私は女なんだ、男の力にはもう勝てないんだ」と気づいたのです。それが悲しくて、悔しくて、どうしようもなく辛かった記憶があります。

その頃からでしょうか。私は度々、ふと「男になりたい」と思うことが増えました。

当時は「性別違和」なんて言葉を知りもしなかったので、一体自分は何なのだろう、という、ふわふわとした曖昧で不思議な感覚のまま過ごしていました。

 

地獄の青春時代

 

そんな風に曖昧でふわふわした日々を送っていた私ですが、中学生になり、更に強く「男になりたい」と思うようになりました。

当時の一人称は周りがみんな使っているからという理由で「うち」と言っていたのですが、どうもしっくり来ず、悩み悩んで「僕」を使うようになり、やがて「俺」と言うようになりました。

当然私の見た目は女ですし、一般的に女性が「俺」と言うことなんて殆どありません。

もちろん最初は周りに色々言われましたが、使い続けるうちに周りも慣れたようで、もはやそれが当たり前になっていました。

しかし、学年が上がり、実は1年生の頃から始まっていた虐めがエスカレートし、私の精神は確実に狂っていきます。

自分はおかしいのではないか、異常なのではないか。そうだ、俺は女なのに、なんで俺と名乗るのだろう。おかしい、おかしいじゃないか。

次第にそう思うようになり、自分を責め、悩みながらも「私」と言うようになりました。

 

当時私には好きな男性がおり、長いこと想い続けて居ましたが玉砕。一時的に彼とは音信不通となりました。

虐めに加え、失恋したことにより私の心は崩壊気味です。同時期にリストカットに出会い、私はすぐに自傷行為の波に溺れていきました。

しかし、そんな時に手を差し伸べてくれる男性が現れました。

それは以前からネットで仲良くしていた、2つ年上の男子高校生。

夜遅くまで私の愚痴や泣き言を聞いてくれたりと、今まで何があったのかを全て説明しても受け止めてくれました。

なぜそんなに親身になってくれるのか聞くと、「貴女が好きだから。」と。突然の告白にとても驚きましたが、当時私の心は完全に弱り切って居たので、何も疑うことなく彼を頼り、次第に惹かれるようになりました。

数ヶ月後、彼とお付き合いをすることになり、無事交際スタート。

彼は先ほども言ったように私の2つ年上で、中高一貫の男子校に通う高校1年生でした。

中高一貫の男子校に通う高校生…。それがどんな意味を示すかと言えば、要するに思春期真っ盛り、ということです。

普段女の子と関わる機会がない彼らは、女の子との適切な距離感が分からずグイグイ来る方も中には居ます。そう、彼がまさにそうでした。

当時私は中学2年生で、流石に処女を卒業するには早過ぎると思い、そういう行為に及ぶなら高校生になるまで待ってほしい、と言いました。

彼はそれでも構わない、と答えてくれ、一安心。と思いきや、遠距離ゆえ普段はLINEや通話がメインなのですが、トークは生々しい下ネタまみれ、通話してる最中にエロゲーをやる等々の始末。

流石に呆れたというか、それを通り越して「もしかして、身体目的なんじゃないか…?」と思うようになりました。

一度疑ってしまうと、どんどんそういう風にしか見えなくなってしまい、何度も辞めてほしいと訴えたものの彼は聞く耳を持たず。募る不信感。嫌悪感。

8ヶ月目のある日、私は悩み悩んで彼に別れを切り出しました。

 

彼は、たった一言「ノシ」と返信し、そのまま私をブロックしたのです。

 

私の8ヶ月間はなんだったのだろう。そう思うと、只々絶望の海に沈んでいくだけでした。

そのままぼんやりと日々を過ごし、私は3年生になり、虐めはエスカレートし、精神状態はどん底になり、夏休み明けに学校で倒れて不登校になりました。

そこからはご存知の方も居るかと思いますが、中学校生活残り半年、というところでフリースクールに通い始め、精神状態を徐々に回復させていき、今に至ります。

 

どん底の恋愛経験をしたからこそ、分かったこと

 

曖昧な違和感を抱えたまま、そんな青春時代を這いつくばった私ですが、最近になってようやく理解したことがあるのです。

 

  1. やはり私は完全に見た目も中身も女とは言い切れない。
  2. 男か女かで言えば男になりたいが、かと言って自分の身体にそこまで激しい嫌悪感を抱いているわけでもないし、適合手術や改名には興味がない。
  3. 人の性別は必ずしも男女の二択で分けられるわけではないので、恐らく私は男女どちらでもない、中間の存在であると認識している。
  4. 一人称について散々悩んでいたが、やはり「私」と言い続けるのは心苦しいので最近は昔のように「俺」と言うようになった。とてもしっくり来ている。
  5. 恋愛対象は男女どちらもだが、性的対象は女性のみ。男性から性的対象として見られるのは、正直苦痛でしかない。性交渉において私が「受け入れる側」であることが、そもそも気持ち悪くて仕方ない。

 

と言った具合です。

スカートなどの女性らしい服装をしたりすることに抵抗はないので、恐らく私は精神面さえ男性のように扱ってくれれば大した不快感はないのだと思います。

 

とにかく私は「女ならこう在るべき」「男ならこう在るべき」という縛りが不快極まりないのです。

例えば「女の子なんだからもっとお淑やかにしなさい」とか「もっと女の子らしい格好をしなさい」だとか。

別に私はピンクのふわふわロリータを着なくたって生きていけるし、流行を意識して生クリームまみれのパンケーキを食べなくても平気だし、お淑やかにしなくても死なないし。

そもそもなぜ赤の他人にそんなことを言われなきゃいけないのか、全く理解出来ないのが正直なところ。

私がいくら可愛らしい女の子になろうと、その人の人生には1ミリも影響がないので放っておいてほしい。

実際に私は今金髪ショートヘアにパンク系の格好をしていますが、もちろん男ウケは最悪です。ナンパも一切されなくなりました。

でもそれで良いのです。私は今、人生で一番自分を好きになれているから。

他人にとやかく言われず、自分で稼いだ金で好きなように出来ることが、幸せで堪らない。

私は今、とても幸せです。

 

そして、好きな人が出来ました

 

さて、ここまで好き勝手に書いてきましたが、最近私には好きな人が出来ました。

相手は同い年の女の子で、今はその子が可愛くて可愛くて堪らないです。

まだ交際には至ってませんが、相手は私がそういう意味で好きだということも知っているし、お互いがお互いのことを好きで居ます。

まだ交際に発展するかは分からないですが、私は生まれて初めて女の子を好きになって、ようやく今まで感じていた違和感の正体を見つけました。

そう、それは先ほども述べたように、「男性から性的対象として見られる」、「性交渉において、私が''受け入れる側''である」ということです。

この二つが無くなった今、純粋に彼女を好きだと思うことが出来るし、何より今まで人を好きになっても自分から相手を求めることは殆ど無かったのに、正直な話、今すごく彼女の身も心も欲しい。

過去に私が性的対象としてしか見られてないということに傷ついた経験があるので、そんな急かすような真似をする気は一切無いですが、確実に欲しいという気持ちが芽生えています。

要するに、男側の欲求、ということです。

 

ようやく、自分という人間の正体が分かった気がしました。

私は15年のかくれんぼに、終止符を打ったのだと思います。

きっとこれからも道に迷って、見つからなくて探し回るだろうけど、もう大丈夫。なんとなくそんな自信があります。やっと自分を見つけたのです。

 

 

これからはTwitterだけでなくブログなどでも一人称を徐々に変えていく予定ですが、俺が俺であることに変わりはないので、今まで通り気が向いた時にでも記事を読んでもらえたら嬉しいですね。

これで、俺の性別違和に対する話はおしまいです。

俺はやりたいことをやって、好きなものは好きだと言って、今まで向き合えなかった分自分のことをもっとちゃんと見てあげようと思います。

それが辛い過去を乗り越えた、自分へのご褒美かな、なんて。

 

 

 

では、また次回。

近状報告

以前、「言葉と生きる」という記事を出したかと思う。

メンヘラ.jpさんにてライターのようなことをやらせて頂き、ありがたいことに様々な方に様々な評価をされてきた。

自分でも自覚の無かったことなので、「私って言葉を紡げるんだ!」と驚き、同時にそれが自信にもなった。

同時期に好きな声優さんのライブ映像を見て、必死に努力して夢を叶えた彼がとてもキラキラしていて、私もそうなりたい、と、''夢を叶える''ことに憧れを持った。

今まで私は、何かに憧れることはあっても「どうせ私はろくな努力もせずに諦めてしまうだろう」と思って、何もかもやる前から諦めてきた。

でも、今回は大丈夫な気がした。自分でもよく分からない、謎の自信。

どんな形であれ、言葉を紡ぐ人になりたいと思った。それは今でも変わらない。

だけどそれ以上に、どうしようもない生き辛さと日々のストレスに押し潰されて、生きることすらままならないのが現状だ。

うちの高校は自由登校なので、時間の縛りがない。

だからこそ、朝起きられなかったりして勉強時間は減る一方で、ギリギリまで居残りをして、薬の力に頼って無理矢理過集中を引き起こし、レポートを終わらせたりしていた。

本当なら朝早くから学校へ行って、レポートを早めに終わらせて、将来の為にも資格や受験勉強だってしなきゃいけないのに。

ストレスで食事を摂ることも出来なくなって、学校でもバイトでも、広い社会に出たことによって自分が''健常者ではない''ことを改めて思い知らされた。こんな胸の痛みはとても久しい感覚だ。

どう足掻いたって私は普通になれない。

街中やバイト先で中学の同級生を見かける度にフラッシュバックが起きて、苦しくて苦しくて堪らなくなる。

薬を飲んだって普通にはなれなくて、店長には一応障害のことは話してあるものの、事実として受け止めているだけで深く理解はしていないのだろう。それに、店長以外の人間には伝えていないので時々周りの人からの視線が痛い時だってある。店長でさえ、よく理解していないので「どうしてそうなるの?」と白い目で見てくることだってある。

正直に言おう。私だってそんなの知りたい。

私より後に入った人が、私より遥かに出来るようになっていくのを見るのがとても辛い。

いつまで経っても底辺のままだ。

私に夢を与えてくれた彼の顔が思い浮かんで、悲しくなる時もある。

私はどう頑張っても、向こう側に行けないんじゃないか。そう思ってしまう。

本来なら、本気で目指しているのならブログだってもっと更新すべきだし、絵だって描かなきゃいけない。

でも、今の私には何も生み出すことは出来ないのだ。

空っぽになってしまった。もぬけの殻である。

魂がふわふわと浮き出て、感情の無いロボットのようにひたすら同じ動きを繰り返すことしか出来ない。

もう、疲れてしまった。

家にも学校にも職場にも居場所がない。

ずっとずっと独りぼっちなままだ。

親には何ひとつ理解されず、友人と連絡を取ることも減り、淡々と日々が過ぎて行く。

張り付いた愛想笑いが、私を虚しくさせる。

今の私には、夢を与えてくれた彼はあまりにも眩し過ぎる。

いつになっても、生きるだけで精一杯だった。

むしろ私がこれ以上のものを望むなんて、図々しいにも程があるんじゃないかと思えてくる。

中学を卒業したって現状はあの頃と何ら変わりないし、昔の嫌な記憶は頭にこびりついて離れないし、生き辛さは日々増すばかり。

どうしてこんな世界に生まれてしまったのだろう。

私がもし、普通だったら。健常者だったら。当たり前のことが当たり前に出来ていたら。

何かが違ったのだろうか。

もうそれすら分からない。

環境が変わって新しく知り合った人に、昔のことを聞かれると何と答えて良いか分からない。

小学生からいじめられて中学は不登校で高校でも孤立してまーす。なんて言えるわけもないし。

私の人生には暗い話題しかないのか?というレベルで、親しくない人に話せるような内容がほとんどない。

そうやって、仕方なく重ねてきた''ごく普通の一般的な学生の人生''という嘘が余計自分を苦しめている気がする。

なんでもいいから休ませてほしい。学校もバイトも辞めたい。暫く引きこもりたいし好きなことだけしていたい。

でもそんなことをしたら周囲から置いていかれるだけだ。今や当たり前である高卒の資格すら取れず、就職も遅れ、世間からは更に白い目で見られるだろう。そうするとまた周りが騒ぎ立てる。結果、孤立。

もう、独りぼっちは嫌なのだ。

もう、孤独は散々だよ。

食欲不振

最近、あまり食事を摂らなくなった。

僕は元々空腹を自覚出来ないのだが(後にこれはADHDの症状のひとつだとどこかで聞いた)、2〜3日くらい何も食べなくてもお腹が空いたと感じることもないし、あまり喉が渇いたと感じることも多くない。

アルバイトを始めたり、睡眠リズムが不規則だったり、両親が共働きゆえ一緒に食事を摂ることが昔から少なかったせいもあって、決まった時間に食事を摂ることもほとんどない。

最近はウィダーインゼリーなどの軽食だけで済ませてしまうことも多く、先日は丸2日ほど飲まず食わずだったが特に何も感じることはなかった。

人は食事を摂らなくなるとだんだん身体が食べ物を受け付けなくなるらしく、白米や肉などの重い物はほとんど食べられなくなってしまった。まず食べ物を見てもあまり食欲が湧かないし、食べても吐きそうになってしまう。

ひょっとして…?と、拒食症などの摂食障害を疑ってみたが、特に食べることへの罪悪感や、「痩せなければいけない」などの強迫観念に囚われているわけでもなく、恐らく摂食障害の線は無いだろう。

いくらADHDで空腹を自覚出来ないからと言って、以前から2〜3日何も食べない、なんてことは無かったし、普通に何も食べなければお腹は空くし喉は渇いていた。こんなにも何も食べなくなったり、食欲が落ちたのはここ最近のことなのだ。

単なるストレスだろうか。

栄養不足ゆえ、頭髪は細くなり抜ける量が多くなった。手首や足首などの目立つところはやせ細ってしまったし(「やつれた」と言った方が正しいかもしれない)、ただでさえ常に体調が安定していないのに、更に悪化するばかりだ。

最近は深夜から朝方にかけて、激しい吐き気を催すことも増えた。ただし、吐き気があるだけで実際に吐いたことは一度もない。

その他、頭痛や動悸なども悪化しているが、薬を飲もうにも食事を摂っていない為に飲むことが出来ない。

僕は何かの病気なのだろうか。どなたか、思い当たる病名などがあればお教え頂きたい。

今度主治医にも相談してみるつもりだ。

 

 

では、また次回。