lemonの掃き溜め

日々の生活や考え事、妄想などをただ綴ってるだけ。

プラットホームの誘惑

ふらふらと覚束無い足取りで地下へ潜り込み、住処へ帰るための足になる鉄の塊をジッと待つ。その間、ふと浮かぶのは自分でもどうしようもないほどの自罰的な思考と、衝動的な希死念慮

ああ、今ここで、あと一歩踏み出すだけで何もかも全てを終わらせることが出来るんだ、と。

電車がホームへ進入してきて、たった1秒がコマ送りのように映り、今だ!今だ!と脳は警報を鳴らす。世界がスローモーションになって、ふと我に返ればいつの間にか電車はホームの定位置に停まっていた。

死ねなかった、と死ななかった、が交差する。

気付けば頭に響いていた警報は鳴り止んで、吐き気がするほどの静寂が訪れ、やがて周囲の雑踏に紛れ溶け込んでゆく。

また、こうして今日を生き延びてしまった。本当に死ななくて良かったのか、どうして死ねなかったのか、今死ねば楽になれたのに。そんなことばかり考えて、線路に揺られる。

言葉に出来ない感情が溜め息に流れて、ガラス越しに己の虚ろな瞳を見つめる。停車駅を告げるアナウンスを聞き流し、変わらない景色を眺め、気付いた頃には最寄り駅で。

押し出されるように駅に降り立ち、なんとなくの足取りを進めていくうちに今度は反対車線の電車がやって来た。

ああ、今度は怖いな。本当は怖いな、生きていくのも、衝動に身を任せて死にゆくのも怖くて怖くて堪らないな。

頬を伝う生ぬるい感触を手で拭って、ズルズルと引きずるように帰路についた。

イチゴ飴

小さい頃から飴玉が好きだった。ひとくちに飴と言っても棒付きのものから個装になっているもの、フルーツ味からシュワシュワするもの、ミルク系までなんでもあるが、数種類のフルーツ味の個装キャンディがミックスになっている大袋のものがいちばん好きだった。スーパーに寄れば必ず買ったし、自室の机の上には必ず飴のストックがあった。

精神を拗らせてしまった学生時代、食事をまともに摂ることもままならず、1日の食事がカップサイズのスープはるさめと飴玉数個だけという生活が半年ほど続いた。何も食べる気が起きなくて、それでも大好きな飴だけは手が伸びた。色々な味が入っているが、ピーチやメロン、マスカットがすきだった。オレンジ味は何故か舌がピリつくけれど、それもまたよい。あの頃は大変お世話になりました。

 

最近、100円ショップに用があって諸々を買い込んでいると、レジ横のお菓子コーナーに飴が並んでいて、ちょうど手持ち無沙汰だったから何か小さいものをひとつ買おうと思った。

は〜最近は色んなものがあるのね、なんて思いながら棚を眺めていると、真っ赤な宝石が目に飛び込んできた。イチゴ飴である。

イチゴ飴といっても本当に苺の味かと言われるとハッキリ頷けるものではなくて、何せパッケージ裏の原材料名には「砂糖、水飴、マルチトール、いちご果汁パウダー、酸味料、香料、着色料(赤102)」と、いちばん大切に思える苺の果汁パウダーが原材料名の四番目に位置するのだから、もうこれは苺というより殆ど砂糖の塊である。具体的に味の説明をするならば、かき氷シロップのような味、だろうか。

色と香りで誤魔化しているような、人工的な苺味。よく駄菓子屋なんかで見かけるやつ。

だけどわたしはこれが好きだった。いつも買う大袋に入っている、本物の苺味の飴も好きだけれど、どうにもこの人工的な甘さが好きだった。

なんというか、メロンパンに近いものを感じる。メロンパンだって本当にメロンが入ってるかと言われればそれは微々たるもので、でもそこには確かにメロンの芳醇な香りが広がっているわけだ。

このイチゴ飴はやや大きめで、ひとたび口に入れればなかなか溶けない代物だが、それもまたいい。

よく溶け終わりの小さなキャンディを噛んでしまうかそのまま舐め続けるか、という話があるが、わたしは断然舐め続ける派だ。お菓子といえど広し、チョコレートや煎餅にスナック菓子など様々な種類があるが、わたしがその中でも飴を選ぶのは"噛まなくていいから"である。

本来そこまで菓子類を食べるほうではないのだが、執筆作業中など口寂しいときは何か食べたくなってしまう性分なので、そうしたときに飴をひとつ放り込むと程よい甘さと舌先の退屈しのぎに癒されるのだ。

だから、食べることに集中しなくて済む飴玉が好きである。

 

ああ、もうイチゴ飴が溶け切ってしまうな。

それでは、また次回。

7割程度の出来損ない

わたしは常に7割の力しか出せない。

特にそれは仕事において発揮されることが多いのだが、新人が7割を出せたらとても優秀だけど慣れてきた身としては7割は出来損ないだろう。

わたしは常にそうだ。最初の頃はすごいすごいと褒められるけど、ずっと変わらないからだんだんと呆れられる。まだ出来ないの?もういい加減慣れたでしょ?そんな視線が突き刺さる。

つらい、つらい、つらい。自分でも分かっているだけに改善出来ないのがとてもつらい。

結果的に自分より下の人間がいつの間にか上になっていたりする現象が多々起きる。

自分の後輩が自分を追い抜いて遥かに優秀な人材へと成長していくのを見るのは、尊敬半分劣等感半分で、いやむしろ劣等感のほうが勝っているだろうか。どんどん自分のことを嫌いになって、追い詰められて、結局3ヶ月から保っても1年ほどで辛くなって辞めてしまう。

人はそれを根性無しと呼ぶだろうか。自分でもそう思うし、分かっている。

だからこそ在宅で自分ひとりで進められる作業のほうが向いているのだが、特に学生アルバイターなんて集団作業での仕事が大半だし、手に職もない高校生のわたしには高望みである。

周りの人間からすれば些細なミスかもしれないが、わたしにとってそれは17年積み重ねた劣等感の上乗せにしかならない。

わたしにとってADHDは "理由" だが、他人にとっては "言い訳" にしかならないだろう。

それを説明したところで分かってもらえるとも、理解を得た上で許してもらおうなどとも思っていない。

仕事に代わりなんていくらでも効くし、絶対にわたしじゃなきゃいけない理由なんて無い。

万が一それを打ち明けて理解を得たところで現実は変わらないし、実際のところはせいぜい偏見や同情の目を向けられるのが関の山だろう。

それこそ劣等感で滅茶苦茶になってしまいそうだし、常に罪悪感で押し潰されそうだ。

生きてることが申し訳ない。ひたすら謝るしかわたしには出来ない。ごめんなさい、ごめんなさい。そう言ったところで何も変わらないけど、もうわたしにはどうしていいか分からない。

職場に問題は無くともわたしに大問題があるので辞めたいと思ってしまう、それさえ申し訳なくて堪らない。

せっかく良くして下さっているのに、わたしが出来損ないなばかりに多大な迷惑をお掛けしている。それが申し訳なくて仕方ない。

自分を否定することでしか懺悔の仕方が分からない。

ただごめんなさいと言うしか能がないわたしは、とにかく迷惑を掛けないことだけを考えて大人しくしよう、と思う。目立たないように、迷惑を掛けないように…。

あれ、これって中学時代と何も変わらないな?

そう気付いたところでどうしようもないんだけど。

 

社会に適合出来ないので人生を中退したいです。

わたしには影に囚われて生きることしか残された道が無い

うちの母親は幼少期から日常的にわたしに「馬鹿じゃないの?」「馬鹿なの?」「馬鹿でしょ」ってばかばかばかばかそればっかりだった。それでわたしが自分で自分のこと馬鹿だと言うようになって、父親がそんなことないと珍しく怒ったりした。あいにくわたしには何故父親が怒ったのか理解出来なかったけど。

思い返せば人生で一度だって母親に褒められたことなどなく、少しばかり羨ましかったりもしたな。

母親は可哀想な人であるけど、だからと言ってそれを許せるほどわたしも優しくはなれなかった。

だって脳みそスッカラカンの出来損ないですもの。ああ、これも母親から繰り返し言われたことですね。わたしの頭部には脳の形をした模型が入っているのです。

 

そんなことはさておき。

突然ですが皆さまには座右の銘などありますでしょうか?

座右の銘とは少し違うかもしれませんが、わたしは常に己の胸に刻み込んでいる言葉があります。

 

『 蛙の子は蛙 』

 

ずっとずっとずっとこの言葉を反復してきましたね。今だってそうです。

己の言動に母親の影がチラつく。蛙の子は蛙だと繰り返し己を責め立てる。

押し寄せ続ける後悔と自責の念に囚われ気が狂いそうになりながらひたすらごめんなさいごめんなさいと謝り、何度も自分のしたことをループ再生し、過去に受けた仕打ちを意図的にフラッシュバックさせ、無理矢理傷口に刻み込むのです。

過去の傷を何度も己で掘り返しては苦しみを思い出させ、こうはならないと誓い、己に制約と誓約を刻む。ずっとそうやって生きてきた。

正しさだけがわたしの唯一無二の味方であり、わたしは一生正しさに捕らわれて生きていくしか許されないのだと自分で決め込んでいる。

 

だれも、きずつけてはならないんだよ。

 

ロジックに雁字搦めになって生きるのは、わたしがこの先も生きるために課せられた決まり事で、ひとはこの考えを自傷行為だとか苦しいことだと言うけれど、わたしはこうでもしなきゃ生きてはならない人間なのです。

 

間違いを犯してはならない。一度抉り返された肉はケロイドとなり戻ることはない。

たとえそれが擦り傷程度だったとしても、一度味わった痛みは無かったことにはならない。

その時点でわたしは、取り返しのつかない、大変なことをしてしまったんだ、と。

 

どんな些細なことでも一生抱え込んで謝って生きていかなきゃいけない。それが思考を与えられた人間に唯一出来る償いでしょう?

生きることはそれだけで罪だから、ずっとずっと謝り続けていかなきゃいけない。

 

もう、ごめんなさいが足りないな。

 

わたしは罰されても致し方のない人間であると理解しているから、人生は償いのためにあるのだと思っている。

 

言葉と生きていくと決めたのだって、ひとを救いたいだとか、そんなのは建前で、わたしのちからで少しでもお役に立てるのであればそれが罪滅ぼしになるだろうかと考えてしまったわけで。

 

こういうところが醜いんだ。

謹賀新年

皆さま、あけましておめでとうございます。

本年もこのブログやTwitterなど含め、わたくしlemonをどうぞ宜しくお願い致します。

 

去年は良い意味での変化が多い年だったかな、と思います。少しでも人間的に成長出来ていたのなら幸いですね。

今年はついに受験生ですが、今のところ志望校などの目星をつけていないのでぼちぼち準備なども進めていかなきゃな〜と思っております。

具体的にこの職業につきたい!なども考えていかなきゃなりませんし、今年は決断の年になりそうですね。

言葉と共に生きていく。そう決めたことは変わりませんし、これがわたしにとって唯一の武器ですから、今後も精進して参りますので見守って頂ければ幸いです。

 

それでは短いですが今回はこのあたりで。

皆さまの1年が素敵なものになりますように。

おひさのにっき

なんとなく気が向いたので筆を取ってみました。ねむいしねむいしねむいので(大事なことなので以下略)今回はあまり肩肘張らずに、ほんのりゆるく書いてみます。

 

 

ふむ。日記と題してみたものの、何を書こうか。ひとまず近状報告といきましょうかね。

最近はもっぱら仕事。基本的に週5で働いてますね。職種としては結構レアケースなのかな?不慣れなことも多いけど、有難いことにこのご時世にしちゃ珍しくホワイトな職場なので、マイペースに働いております。

怒鳴り散らす上司も客も居ないし、短時間高時給だし、我ながらラッキーだったと思いますよ。前職はマジで人権が無かったのでね…。

 

 

そしてそして、無事に今期もレポート修了致しました〜。ぱちぱち。

50枚もあったんだよ、えらくない?(えらい)

これでひとまず授業を受ける権利をゲットしたので、ちゃんと出席して仮単位もらって、あとは試験の合格を祈るのみ。

そうしたらあっという間に進級の季節なんですよねぇ。早いものでもう三年になるのです。

そろそろ大学決めなきゃなぁ、と思いつつ…な日々。どうしましょうかねぇ。

まあもちろんやりたいことは決まってるし、それはずっと変わらないけど、いざ現実にするためには…と考えるとなかなか難しいものだね。

でもわたしはある尊敬する方に、必ず星になるって約束したので、絶対登り詰めてやりますよ。

海賊王に、俺はなる!(そうじゃない)

 

 

さてさて。

日記とはこんな感じでよいのだろうか。日常とは目まぐるしいようで曖昧に過ぎてゆくものだから、意識があやふやになった最近は特筆することもなく筆を取ることが減ってしまった。

それは寂しいことでもあり、本来ひとのいとなみとしては嬉しくもあるのかな。それだけ充実してるってことなんだろう。

だけどわたしは、すべての痛みや苦しみや悲しみを、もがき続けながらも紙面にぶつけたあの日々が愛おしい。

わたしは長らく怒りを原動力に生きてきた。でもすべてが終わったあの日以来、糸がぷつりと途切れてしまったんだよね。

とりとめもなく溢れていた煌めきが、徐々に輝きを失っていくのがわかる。それはとてもかなしいことだ。

でもそこから見えるものもあるだろう。今度はそれを連ねていけたらいいな。

そう思いながら、風向きに身を任せて暫く生きていきましょうかね。

 

おやすみなさい、よいゆめを。

言語化出来ない感情を言葉にしたい

言葉を紡いでいくなかで、何度も己の奥底に仕舞い込んでいた感情とにらめっこをして、何度も迷子のわたしを見つけ出す作業を繰り返していると、だんだんとその当時言語化出来なかったものが解かれていく感覚がある。

わたしはそれが好きで幾度となく感情の糸を巡らせ続けているけど、探せば探すほど溢れ出てくる極彩色の感情の粒たちに出逢えて、わたしは本当に幸せだ。

 

わたしは声に出して喋るのが苦手だし、自分の外見や声も好きじゃない。だからこうして思ったことを文字に変換して飛ばしてゆけるというのはとても便利だなぁと思うし、誰かが紡いだ感情の糸を受け取って読み解いていくのがすごく楽しい。

感情を言葉に乗せるのは時にはすごく難しいことでもあって、これはわたしが常々言ってることでもあるけれど、どんなに書き手がAだと思って書いても受け手が10人中10人Bだと思えばそれはBにしかならないのだ。

時には書き手と受け手の解釈違いによって棘が生まれてしまうかもしれないけど、それをまたひとつひとつ丁寧に取り除いていけるのも言葉の力だと思っている。

 

まだ、目指すべきが何者なのか見えていないけど、やっぱりわたしにはこれしかないな、と常々思う。

いつか書店などでわたしの名前が皆さまの目に留まる日が来ることを願ってやまないですね。