lemonの掃き溜め

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続・努力が出来ないのは甘えか

以前、『努力が出来ないのは甘えか』という記事を書いたことがある。タイトルのわりに要は単なる怠け者の嘆きなわけだが、時を経てなんとなくこの答えが分かるようになった気がするので、今回は過去の自分と答え合わせといこう。

 

ひとまず結論から言うと、やはり努力が出来ないのは甘えだと思う。ただこれはよく分からん暑苦しい体育会系の精神論など根拠不明の主張ではなく、もちろん必ずしも批判されるべきものではないといった側面も持ち合わせている。

 

まず、そこに行き着いたきっかけから述べよう。

 

わたしは最近よくTikTokなどで耳にする機会が多かった、とある地下アイドルグループの曲を興味本位できちんとAppleMusicで聴いてみた。するとまあ、聴いているこっちがいたたまれなくなるくらい歌が下手だった。TikTokで聴いていたときはメインはもちろんその動画に映るユーザーであるし、何より倍速再生されていたのでさほど気にならなかったものが、きちんと音楽という形で聴いた途端に粗という粗が、それはそれはもう目立ちに目立ちまくっていた。

試しに過去の楽曲もチラッと聴いてみたが、どれもこれも正直聴くに耐えないクオリティだ。生歌なんてとても耐えられると思えないし、正直これにお金を払おうとは思えない。もちろんアイドルなので顔は可愛いが、それだけが全てじゃないだろう。

だからと言って地下アイドル全般を否定するわけではなく、中にはわたしが知らないだけで歌も踊りも上手いアイドルだって居るかもしれない。それはプロだって同じで、テレビに出るような有名アイドルだの俳優だのも正直「そんなに持て囃すほどのものか?」というレベルだってゴロゴロ居る。

 

これは持論だが、プロアマ問わず求められる技術に粗が目立ったり、はたまた現状は大したことなくてもそこからさらに上達しようとする気概を感じられない者に対して多くの人は惹かれないだろう。アイドル然り俳優然り、偶像崇拝というのは平たく言えば努力に対する対価を支払うことだ。これはスーパーで食品を買ったり、ショップで服を買うのと同義である。わざわざ不味いものやダサい服に金を出す物好きなどそう居ない。これを上手く誤魔化し、本当は大したことない中身でもどうにか買ってもらう為に重要なのが一見美味しそうに見える外見であったり、低価格であったりするというわけだ。

 

所謂オタクというのはその対象となる人物の日々の過ごし方などをSNSや雑誌の取材などで知ることが出来るし、そうしていくうちにその人物の過程を見ることになる。過程を知ると情が湧くもので、それこそが応援したくなる気持ちに繋がるのだろう。

 

だがしかし、外野は結果が全てであり、結果が無いとオタクになるきっかけも生まれない。ここで言う結果とは新曲であったり、ライブであったり、要するに商品のことだ。

そういう意味ではたとえどんなにボイトレだのを頑張っていて、それをオタクが知っていたとしても、完成した商品がそこそこのものでしかないのならそれは外野から努力不足に捉えられるのも無理はないと感じる。

 

そこでわたしはふと思った。これは一般社会でも同じことだな、と。

 

結果の出ない努力は努力ではない、などといった言葉を耳にすることが稀にあるが、これを言われた当事者とその身内の大多数は反発するだろう。そんなことない、こんなに頑張っている、今は駄目でもいつかは、等々。しかしそれは内輪同士の希望的観測に過ぎない。

 

結局のところ、他人は結果しか見ていない。億と居る人間から何かしらに抜擢するにあたって、いちいち全員分の過程などコスパが悪過ぎて見ていられないからだ。

だからこそ就職では履歴書で学歴や職歴を見るし、合コンでは立派な肩書きを持つ者に惹かれる場合が多い。消費者のニーズに応えられない企業は潰れていくのと同じことなのだ。

内輪同士の自己満足だけではビジネスにならない。そこに気が付けないうちは一生ぬるま湯に浸かって成長しないままだろう。

 

だからと言って、何も内輪同士のぬるま湯をわたしは悪いことだとは思わない。全ての人に好かれる人間や商品など存在しないからだ。それが生産者の心の支えになり、次へ発展させる糧になることも多いだろう。

もちろんビジネスにおいては好かれれば好かれるほど所謂成功となる場合が多いし、だからこそ商品を提供する側は消費者の求めるものを再現する。それが企業努力と呼ばれるのだろう。

 

しかしこれが親子間など一般的な生産者対消費者といった関係ではない場合、どうだろう?

 

偏差値の高い大学への進学だとか、有名企業に就職だとか、それらはもちろん実現出来たのなら褒められるべきことだろう。かと言ってそれが出来なかったとき、『お前は出来損ないだ』『いつもいつも怠けてばかりで努力が足りない』などと過剰に批判するのは、果たして正しいと言えるだろうか。

評価と批判と激励は別物である。そのことに気付かないで居るのはとても危険なことだとわたしは思う。

 

親にとって子供とは、有名大学や大企業に入れないと用無しの消耗品でしかないのだろうか?

 

わたしはそれは違うと思いたい。わたしは未成年であり、子を持ったことは無いが、だからこそ子供側に立つ者としては親には無条件に肯定して愛してほしいものだ。もちろんこれにだって限度はあると思うし、もしわたしが史上最悪の殺人事件なんかを起こしたとしたら親に軽蔑されるのも無理は無いと思う。たとえそこまでのことを起こさなかったとしても、とうに成人を過ぎて病気などの理由も無く親の脛を齧って堕落して生きていたとしたら、それは批判されるべきことなのかもしれない。

だけど殺人や強盗と違って、進学や就職、もしくはそんな大きなものでなくともテストの点数や習い事の成績があまり良くない結果だとして、それらはそんなに、今までの過程を、人格を、人生を全否定するほど批判されるものなのだろうか?

 

親や教師、配偶者、はたまた恋人や友人というのは所謂身内であり、先に述べたぬるま湯の内輪に入る部類であろう。

そういった内輪の人間にさえも批判され、知っているはずの過程を全て無視してでも厳しい対応をするのは、なかなか辛いものがある。それじゃあどこにも心の拠り所がないし、あんまりじゃないか。

何事も飴と鞭が大事であると思うし、鞭ばかり与えては弱って意欲を失い、次第に絶望してしまうのも容易に想像出来る。これが所謂虐待ハラスメントと呼ばれるものだ。

かと言って飴ばかり与えては実力の伴わない過剰な自信が生まれ驕ったりする。何事もバランスが大切である。

それは親だけの責任でなく、子も同様に正当な評価を受け入れず現実逃避ばかりしては何も成長することなく、いくつになっても精神年齢が幼児レベルのままだ。正しい批判を不当だと捻じ曲げて憤慨するのは小学生までにするべきである。しかし、それを子が自発的に行うのは難しいものがあるし、それらを上手いこと幼少のうちに伝えるのが親や教師など教育者の役目であり、責任だとわたしは思う。

 

こういった考えから、努力が出来ないのは甘えであるものの、必ずしも批判されるべきものではないといった結論に至った。

 

 

過去の記事でも、わたしは母親からの日常的な否定に苦しんでいることは記してきた。確かにわたしは誰かに誇れるような実績など持っていないし、自分がアスリート並の努力をしているとは思わない。かと言って別に学校にも行かず、働くこともせず、他人に迷惑ばかり掛けているわけではないし、自分で言うのもなんだがわりと普通の子供だと思う。

 

母親がわたしに優秀な成績や肩書きを求めているわけでもないのに、やたらと怠け者だ努力不足だ出来損ないだと批判し、時には暴力を振るうことにわたしは長らく苦しんできた。だからわたしは自分がどうしようもない出来損ないで、なんの価値も無い人間だと思っていたが、ある程度の年齢になって教師やバイト先の先輩にとても良くして頂いたり、真面目で仕事もきちんとこなすといった評価を頂いたときにはとても驚いたし、同時にその評価が信じられなかった。子供にとっていちばん身近な母親に長年否定され続けてきた為、すっかり洗脳されていたからだ。

公私共にお世話になっているバイト先の先輩や、事情を知る友人たちにも『あなたは自己否定が過ぎる』『そんなに卑屈にならなくてもいい』と言われることが多々あり、それらの言葉も申し訳ないが当時のわたしには全く響かなかった。なんなら今でも少し信じられていない節がある。

それほど親が子に与える影響は大きいのだ。それは親に限らず、赤の他人でもトラウマを与えられるようなことがあれば同じであろう。

 

先程も述べたように、親や、ましてや赤の他人に無条件の愛情を求めるのは些か難がある。だけども人はそうやってぬるま湯を求めるものだし、互いがそうして支え合って社会は成立していくものだ。

だからどうか、せめて、唯一の支えであるぬるま湯を取り上げないであげてほしい。頑張ったら結果が出なくとも褒めて、慰めてあげてほしい。

 

それが人の温もりなんじゃないかと、わたしは思う。