lemonの掃き溜め

日々の生活や考え事、妄想などをただ綴ってるだけ。

ひとを救うということ

わたしは幼少期から、人を救うことに並々ならぬ憧れというか、使命感のようなものを持っていた。身体的にも精神的にも、自分が誰かの助けになることに執拗にこだわった。

たとえば母親と出掛けたりなんかして、エスカレーターに乗ると決まって母親を自分より上に立たせてスカートなどが下の人間に見えないよう仁王立ちしていたし、エレベーターだって絶対に開閉ボタンの前から動かず自分が最後に降りた。

物心ついたときから母親はわたしに自分の辛い過去を話したりして、その頃から無意識に"お母さんは可哀想なんだ"と思っていた。殴られたり怒鳴られたりするのは日常茶飯事だったし、それを完璧に許せるかと言われるとまた別だが、それでもわたしが母親のことを憎悪のみで固めることが出来ないのはわたしにとって母親は可哀想だからだ、という同情の念が根底にあるからだ。我ながら随分とお人好しなのかもしれない。

自信が無い母親に、子供ながらにたくさんの褒め言葉を送った。ままは若くてきれい!ままの料理がいちばん美味しい!ままは優しくてきれいで完璧なお母さん!ままはいつでも正しい、そうやって何かある度に母親に対して自信をつけるような言葉を贈った。不幸話をたくさん聞いてきたから、どれだけ出来損ないだと努力不足の怠け者だと言われようと、少しでも、少しでも、と。これは自分が気に入られたいとか、顔色を伺って出た言葉ではない。わたしはとにかく母親に元気で生きてほしかった。聞かされてきた今までの人生が"あんまり"だと思ったからだ。心からの同情だった。たくさん殴られたし時にはテーブルが飛んできたり包丁を突きつけられることもあった、それでも自分のことなどどうでもよかった。

 

小学生の頃、ショッピングモールに入っている本屋さんで本の立ち読みをしていた。隣のコーナーを眺めていたおばさんが、突然蚊の鳴くような細い声を上げたと思ったら、縋るようにわたしの肩に手を置き、そのまま力無く床に倒れていった。

5分か10分か、それ以上か。幼いわたしには何が起きたかも分からず、どうすることも出来ず、ただ呆然とその光景を見ていた。心臓がドクンドクンと脈打ち、火照るように熱かった。わたしとは対照的に、青白い顔をしたおばさん。何故床に倒れているのか、ぐるぐる、ぐるぐると思考が渦巻くなかで、救急隊が到着しテキパキと処置を施しているのを、虚ろに見ていた。その後おばさんがどうなったのか、知る術も無い。

 

わたしは警察官になりたかった。そのために空手だって習ったし、実は初段の一歩手前までいったのである。警察になったところで、救われるべき存在は取捨選択しなければならない現実を知り、諦めたが。

 

中学生になった。地元の大きな公立学校だったので、生徒の数は莫大だった。集団生活をする上で人間の数が多いと避けられないものは虐めである。顔が不細工だから、言動がキモイから、好きな人が被ったから。そんな到底下らない理由で虐めは蔓延っていた。のちに自分も虐められる側になるのだが、まだ傍観者であった中学一年生。わたしは顔がキモイとかそんな理由で虐められていた男の子を庇った。特筆する理由もない、ただ理不尽だと思ったからだ。

まあ、その後どうなったかはお察しである。

 

あるとき、アマチュアで文筆業に携わる機会があった。思いのほかたくさんの方に読んで頂けて、拡散されたり、話題になったり、感想を頂いたり、時にはリクエストや悩み相談も受けた。わたしの言葉に救われたと言ってくれる方が何人も居た。だけど、読者も同業者も、みな、みな、居なくなってしまった。広いネットの海でふと訃報を聞くこともあったし、遠い噂で亡くなったと聞いたが直接訃報を聞くことさえ叶わなかった人も居る。わたしはずっと、その人たちのことを時折思い出しては後悔に苛まれていた。わたしなんかが大それたことを言うのも烏滸がましいが、それでも、やっぱりわたしには救えなかったんだと、自罰的な思考に支配された。

 

死を強要するのは間違いだが、同時に生を強要するのもいけない。生きていてほしいと願うのは生存者のエゴだ。死にたいと思うひとを、止める資格などわたしに無い。無責任に生を押し付けたところでわたしにその人の人生の責任は取れないからだ。

だから、せめて、せめて、少しでも自発的にまだ生きていたいと思える手伝いがしたかった。

人を救いたくて、誰かの希望になりたくて、明日に目が眩まないよう、また道を見据えて歩き出せるように。どうか、どうか。わたしのエゴを叶えさせてほしい、卑劣で愚かなわたしの夢です。