わたしには影に囚われて生きることしか残された道が無い
うちの母親は幼少期から日常的にわたしに「馬鹿じゃないの?」「馬鹿なの?」「馬鹿でしょ」ってばかばかばかばかそればっかりだった。それでわたしが自分で自分のこと馬鹿だと言うようになって、父親がそんなことないと珍しく怒ったりした。あいにくわたしには何故父親が怒ったのか理解出来なかったけど。
思い返せば人生で一度だって母親に褒められたことなどなく、少しばかり羨ましかったりもしたな。
母親は可哀想な人であるけど、だからと言ってそれを許せるほどわたしも優しくはなれなかった。
だって脳みそスッカラカンの出来損ないですもの。ああ、これも母親から繰り返し言われたことですね。わたしの頭部には脳の形をした模型が入っているのです。
そんなことはさておき。
突然ですが皆さまには座右の銘などありますでしょうか?
座右の銘とは少し違うかもしれませんが、わたしは常に己の胸に刻み込んでいる言葉があります。
『 蛙の子は蛙 』
ずっとずっとずっとこの言葉を反復してきましたね。今だってそうです。
己の言動に母親の影がチラつく。蛙の子は蛙だと繰り返し己を責め立てる。
押し寄せ続ける後悔と自責の念に囚われ気が狂いそうになりながらひたすらごめんなさいごめんなさいと謝り、何度も自分のしたことをループ再生し、過去に受けた仕打ちを意図的にフラッシュバックさせ、無理矢理傷口に刻み込むのです。
過去の傷を何度も己で掘り返しては苦しみを思い出させ、こうはならないと誓い、己に制約と誓約を刻む。ずっとそうやって生きてきた。
正しさだけがわたしの唯一無二の味方であり、わたしは一生正しさに捕らわれて生きていくしか許されないのだと自分で決め込んでいる。
だれも、きずつけてはならないんだよ。
ロジックに雁字搦めになって生きるのは、わたしがこの先も生きるために課せられた決まり事で、ひとはこの考えを自傷行為だとか苦しいことだと言うけれど、わたしはこうでもしなきゃ生きてはならない人間なのです。
間違いを犯してはならない。一度抉り返された肉はケロイドとなり戻ることはない。
たとえそれが擦り傷程度だったとしても、一度味わった痛みは無かったことにはならない。
その時点でわたしは、取り返しのつかない、大変なことをしてしまったんだ、と。
どんな些細なことでも一生抱え込んで謝って生きていかなきゃいけない。それが思考を与えられた人間に唯一出来る償いでしょう?
生きることはそれだけで罪だから、ずっとずっと謝り続けていかなきゃいけない。
もう、ごめんなさいが足りないな。
わたしは罰されても致し方のない人間であると理解しているから、人生は償いのためにあるのだと思っている。
言葉と生きていくと決めたのだって、ひとを救いたいだとか、そんなのは建前で、わたしのちからで少しでもお役に立てるのであればそれが罪滅ぼしになるだろうかと考えてしまったわけで。
こういうところが醜いんだ。