lemonの掃き溜め

日々の生活や考え事、妄想などをただ綴ってるだけ。

理想

私は特別自分のことを真面目だと思ったことはさほど無いのだが、この話をすると大抵「真面目だね」と言われるので、その話をしようと思う。

 

突然だが、皆さんは普段ひとり反省会なるものを開催することはあるだろうか?

私はこれを日常的に、恐らく幼少時代からほぼ毎日行っている。

具体的に私が言うひとり反省会とは何を指すのかと言うと、主にその日の自分の言動を振り返って「ここが駄目だった」とか「これは良かった」とか、まあ文字通り普通の反省会なのだが、知り合いに聞く限りあまり積極的にこれをやる人は居ないようだ。

これは私が常々思ってることなのだが、人の思考というのは日常のふとした瞬間に表れるものだと思う。

たとえば普段どんなに差別的な言動を批判している人でも、何かあった時に「これだから○○は〜」などと言ったりするのは普段から頭のどこかではその○○に対して差別的な偏見を持っている、ということだ。

このように、人の思考は言葉に、言葉は態度に、態度は行動に表れるものだと思う。

だからこそ私は日々ひとり反省会を開き、感情論ではなく常に正しさを追求すべきだと考えている。

感情というのはその時々で常に移ろうものだし、今日考えていることが明日には変わっているかもしれない。常にこうであるという確証が無いのだ。

私はそれがとても許せないし、確証のないものを人に与えるのは時にハイリスクであると思う。

だけど正しさは常に正しいままであるし、きちんと筋を通して組み立てた答えは揺るぎないものだ。なので私は正しさに重きを置いている。

感情の示すままに安易な発言をすると、相手を傷つけたり、自分の今まで築いてきた信頼を壊すことだってあるだろう。

そうならない為にも、普段からどんな些細なことだって感情ではなく正しさで冷静に判断し、その正しさを自分の軸になるよう思考を自ら矯正しているのだ。それが私の行っているひとり反省会である。

 

私は恐らく人生で一度も他人に本気の怒りをぶつけたことはないのだが、これもその為であると思う。

怒りのエネルギーとは恐ろしいもので、ついカッとなって酷い暴言を吐いたり、もしかしたら暴力を奮ってしまうかもしれない。一度したことはどんなに謝ろうと二度と戻らないし、そのついカッとなって吐いた言葉というのは、普段から自分は意識していなくとも頭の片隅で思っていることが出たものだろう。

後からどんなに謝ろうと、本心から出た言葉に対する謝罪に何の意味があろうか?その傷は二度と消えないのに、謝ったところでその謝罪にどれほどの価値があろうか?

私には分からないし、私がもしそれをやられた側であったらきっとその人に対する今後の信頼は無に等しいと言えるだろう。

後から言い訳なんていくらでも出来るのだ。でも私はそんな言い訳聞きたくないし、聞いたところでそれは信頼に値しない。

確証のない感情を軸にしていると発言に矛盾が生じるし、ついつい自分の都合の良い方向に考えてしまいがちだ。

でもそれではいつまで経っても成長出来ないし、つまらない人間になるだけだろう。

矛盾の無い、真っ直ぐに一本筋を通した人間に私はなりたいのだ。

その為にも、日々ひとり反省会を開催している。

 

勉強が出来るとか、お金持ちであるとか、そんな後付けの価値に人間としての本当の価値など見い出せないと、私は思う。