憎悪
先日、新川和江さんの「わたしを束ねないで」という詩を国語の授業で扱った。
以下、詩の全文。
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡す限りの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,や.いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
この詩は新川和江さんの「何にも縛られず自由に生きたい」という、生きる望みを綴った詩なんじゃないか、というのが、授業での結論だった。
そして、この「わたしを束ねないで」と同じ構成で自分自身の望む生き方を詩にしてみよう、ということで、私は以下のような詩を創った。
私を殺さないで
極彩色の絵の具のように
全てを焼き尽くす炎のように
私を殺さないでください 私は水
終わりのない世界
にごらない瞳
この詩に込めた意味は、これを読んだ皆様のご想像にお任せしようと思う。
個人的には気に入っているので、ここに掲載した次第である。
そして次の話題。
これもまた授業でのことなのだが、今社会の授業では公民をやっていて、先生がお喋り好きゆえに雑談がよく入る。
その時話していた内容がなんとも言えぬものだったので、その話をしよう。
三者面談。
学生時代に一度くらいは経験したことがあるんではなかろうか。
先生曰く、日本の三者面談で親は教師に「うちの子はみんなと同じことが出来ていますか?」と聞くそうだ。
そして教師が「みんなと同じですよ。」と言うと、ホッとした顔をするらしい。
ところがフランスの三者面談では、親は教師に「みんなが○○してる間、うちの子は何をしていますか?」と聞き、教師が「1人で□□をしていますよ。」と言うと、「個性だ!」と喜ぶ、とのこと。
…なんだこの違いは。
きっと日本なら、みんなと違うことをしていると知った親は不安になったりするんだろう。
仲間外れにされてるんじゃないか、うちの子は人と違うんじゃないか、等々。
この芯まで染まった根強い「集団行動」「同調圧力」は一体なんだ?
人と違うことをすることの、何がいけない?
冷静に考えれば分かることじゃないか。
みんなが休み時間にボール遊びをしてるからと言って、読書をしてはいけない理由にはならない。当たり前のことだ。
だけどどういうわけか、「仲間外れ」「いじめ」「異端者」という名前がついてしまう。
何ひとつおかしいことはないのに。
これを私は「承認欲求」のせいだと思っている。
今の親は赤子が泣こうが騒ごうが走り回ろうがなだめることも注意することもしない。
「成長したらどうせ覚えてないだろ」と、まだ上手く気持ちを伝えられない子供に向かって己を否定するような暴言を平気で吐く人間もいる。
確かに覚えてない。そりゃ幼い頃の記憶など曖昧だ。
しかし、たとえ言葉が通じなくても、覚えていなくても、雰囲気や表情で伝わるものは伝わるし、その時出来た傷は一生残る。
それが現代の化け物、「承認欲求」に囚われる人間の、原因だろう。
生まれてから1番近くにいるのは大抵の場合親だ。
その親からの愛情をきちんと受けられなかったからこそ、無意識の「承認欲求」に駆られる。
そして、簡単に認めてもらえる「人と同じ」ことをして、承認欲求を満たしているんじゃないか、と思う。
人と同じことをして、いわゆる「普通」の平凡な人生を歩むことが「幸せ」とされていて、そうでなければ異常だと言われてしまう世界。
個性だなんだ言うけれど、それがあることによって仲間外れだなんて、そんなの個性もクソもあったもんじゃない。
学校よ、日本の教育者よ、貴様らの言う「個性」「教育」とはなんだ?
社会にとって都合の良い歯車となり、死ぬまで媚び売ってペコペコしてる犬のことか?
それは個性じゃない、教育じゃない、奴隷だ。
貴様らは奴隷を育てているに過ぎない。
人と違うことの何がいけないのか、なぜ自我を殺してまで人と合わせなきゃいけないのか。
生徒の命より、人ひとりの命より、労働力の方が大切か?
私はフリースクールに通う前、つまり在籍校へ通っていた時代は、死ぬか卒業するか転校するか、の三択しかなかった。
転校は金もかかるし、ただでさえ人と関わるのが苦手なのにまた1から知らない人間と関係を築くのか、と考えたら、やはり無し。
死と卒業のどちらが先か、そんな毎日だった。
フリースクールなんて存在は知らなかった。
教師は誰ひとりとしてそんなこと教えてくれなかった。
なぜ3年生になるまで放っておいたのだ?
私は1年生の時にいじめで自殺未遂をしていて、一度担任に呼び出されている。
自殺未遂をする前に、担任はいじめの存在を認知していたはずだ。だけど見て見ぬ振りをした。
死んでからじゃ遅いんだぞ。良かったな、死ななくて。
呼び出されたその時にフリースクールの存在を知っていれば、もっと早くあの苦しみから解放されていたはずなのに。
担任としては自分のクラスから不登校児、いじめられっ子なんて出したくないだろう。
だけど自分の欲のせいで、生徒が死んだらどうする気だ?どう責任を取る?
そんなの、謝って済む問題じゃない。
2年半自我を殺して学校に通ったおかげで心も体力も気力も削り取られ、現在は回復へ向かっているものの、トラウマのせいで色んなことが出来なくなっている。
在籍校の教師が憎い。大嫌いだ。
卒業文集には「3年間の思い出を〜」だと?
私に対して大小問わず何かしらの危害を加えた人間の名前をフルネーム、やられた内容を事細かに書き連ねてやろうか?
不登校児になった途端に教師が揃って顔色変えて優しくすり寄ってくるのも気持ちが悪くて吐き気がする。
「元気にしてた〜?」だと?
その元気を奪い取った貴様らが何を言う。
フリースクールに通っているものの、籍を置いているのは在籍校なので、やはり一刻も早く卒業したい。
この呪縛から解き放たれたい。いい加減にしてくれ。
そんな怒りが、フツフツと湧いている今日この頃。
似たような内容をメンヘラ.jpにて書かなきゃならないのだが、このままだとあまりにも乱雑な内容を読者の皆様にお届けすることになりそうだったので、ひとまずこちらで吐き出させてもらった。
お目汚し申し訳ない。
では、また次回。