謹賀新年
皆さま、あけましておめでとうございます。
本年もこのブログやTwitterなど含め、わたくしlemonをどうぞ宜しくお願い致します。
去年は良い意味での変化が多い年だったかな、と思います。少しでも人間的に成長出来ていたのなら幸いですね。
今年はついに受験生ですが、今のところ志望校などの目星をつけていないのでぼちぼち準備なども進めていかなきゃな〜と思っております。
具体的にこの職業につきたい!なども考えていかなきゃなりませんし、今年は決断の年になりそうですね。
言葉と共に生きていく。そう決めたことは変わりませんし、これがわたしにとって唯一の武器ですから、今後も精進して参りますので見守って頂ければ幸いです。
それでは短いですが今回はこのあたりで。
皆さまの1年が素敵なものになりますように。
おひさのにっき
なんとなく気が向いたので筆を取ってみました。ねむいしねむいしねむいので(大事なことなので以下略)今回はあまり肩肘張らずに、ほんのりゆるく書いてみます。
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ふむ。日記と題してみたものの、何を書こうか。ひとまず近状報告といきましょうかね。
最近はもっぱら仕事。基本的に週5で働いてますね。職種としては結構レアケースなのかな?不慣れなことも多いけど、有難いことにこのご時世にしちゃ珍しくホワイトな職場なので、マイペースに働いております。
怒鳴り散らす上司も客も居ないし、短時間高時給だし、我ながらラッキーだったと思いますよ。前職はマジで人権が無かったのでね…。
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そしてそして、無事に今期もレポート修了致しました〜。ぱちぱち。
50枚もあったんだよ、えらくない?(えらい)
これでひとまず授業を受ける権利をゲットしたので、ちゃんと出席して仮単位もらって、あとは試験の合格を祈るのみ。
そうしたらあっという間に進級の季節なんですよねぇ。早いものでもう三年になるのです。
そろそろ大学決めなきゃなぁ、と思いつつ…な日々。どうしましょうかねぇ。
まあもちろんやりたいことは決まってるし、それはずっと変わらないけど、いざ現実にするためには…と考えるとなかなか難しいものだね。
でもわたしはある尊敬する方に、必ず星になるって約束したので、絶対登り詰めてやりますよ。
海賊王に、俺はなる!(そうじゃない)
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さてさて。
日記とはこんな感じでよいのだろうか。日常とは目まぐるしいようで曖昧に過ぎてゆくものだから、意識があやふやになった最近は特筆することもなく筆を取ることが減ってしまった。
それは寂しいことでもあり、本来ひとのいとなみとしては嬉しくもあるのかな。それだけ充実してるってことなんだろう。
だけどわたしは、すべての痛みや苦しみや悲しみを、もがき続けながらも紙面にぶつけたあの日々が愛おしい。
わたしは長らく怒りを原動力に生きてきた。でもすべてが終わったあの日以来、糸がぷつりと途切れてしまったんだよね。
とりとめもなく溢れていた煌めきが、徐々に輝きを失っていくのがわかる。それはとてもかなしいことだ。
でもそこから見えるものもあるだろう。今度はそれを連ねていけたらいいな。
そう思いながら、風向きに身を任せて暫く生きていきましょうかね。
おやすみなさい、よいゆめを。
言語化出来ない感情を言葉にしたい
言葉を紡いでいくなかで、何度も己の奥底に仕舞い込んでいた感情とにらめっこをして、何度も迷子のわたしを見つけ出す作業を繰り返していると、だんだんとその当時言語化出来なかったものが解かれていく感覚がある。
わたしはそれが好きで幾度となく感情の糸を巡らせ続けているけど、探せば探すほど溢れ出てくる極彩色の感情の粒たちに出逢えて、わたしは本当に幸せだ。
わたしは声に出して喋るのが苦手だし、自分の外見や声も好きじゃない。だからこうして思ったことを文字に変換して飛ばしてゆけるというのはとても便利だなぁと思うし、誰かが紡いだ感情の糸を受け取って読み解いていくのがすごく楽しい。
感情を言葉に乗せるのは時にはすごく難しいことでもあって、これはわたしが常々言ってることでもあるけれど、どんなに書き手がAだと思って書いても受け手が10人中10人Bだと思えばそれはBにしかならないのだ。
時には書き手と受け手の解釈違いによって棘が生まれてしまうかもしれないけど、それをまたひとつひとつ丁寧に取り除いていけるのも言葉の力だと思っている。
まだ、目指すべきが何者なのか見えていないけど、やっぱりわたしにはこれしかないな、と常々思う。
いつか書店などでわたしの名前が皆さまの目に留まる日が来ることを願ってやまないですね。
性嫌悪なのか、なんなのか
私は自分がどうしたって受け入れる側であることが辛くて堪らない。
精神的にも肉体的にも、私は受け入れる側にしかなれないのだ。
私は男女その他問わず「好きになった人が好き」という感じなのだが、比較的に今まで好きになったのは男性が多かった。
初めて付き合った男性と別れた理由は「いずれ来るであろう性交渉が嫌だから」である。私からだった。
その人のことは本当に大好きだったけど、どんなに好きな相手であれど自分が他人に性的な目で見られてるのが気持ち悪かったし、私は女だから普通にセックスをするなら心身ともに受け入れる側にしかなれない。
私はそれが想像だけでも苦痛だった。
「したことないから怖いんじゃないの」とか「一度やれば分かる」とか、そんなことは散々聞いた。それはもう耳が痛くなるくらいに。
でも違うんだ。本当はしたいけど怖くて出来ないんじゃない。どんなに好きでもしたくないんだ。
こんなこと言っても理解出来ない人には一生理解出来ないんだろうから、無理に分かれとは言わない。分からないなら黙っててほしい。
触れられるのは全然平気なのだ。手を繋いだり頭を撫でてもらったり、キスだって軽いものなら全然構わない。愛情を込めたスキンシップなら構わないのだが、そこに性的な理由が加わると途端に駄目になる。気持ち悪くて堪らない。
全身トリハダが立つし、なんとも言い難い感覚でゾワゾワする。気持ち悪い。激しい嫌悪感。
自分が性的に見られているのが気持ち悪くて仕方ないのだ。怖いんじゃない、気持ち悪い。
特別過去に何か嫌な思い出があったわけでもなく、自然とそうなっていた。単純に心と身体のバランスが取れていないのだろう。
今の年齢ならまだしも、これから大人になるにつれて「交際する」というのは将来的にほぼ100%セックスをすることになるだろう。好きな女と付き合っていて一生手を出してこない男が居るならむしろ知りたいくらいだ。
男女その他問わず好きな人を好きになるけど、安心感とか色んな理由で好きになるのは男が多い。でも好きになったところで、万が一想いが通じたところで、私はその人とは付き合えないのだ。
だってそのうちには必ずセックスをすることになるから。
男だって付き合ってるのにセックスも出来ない女なんか正直に言えば嫌だろうし、それはそれで悲しいことだろう。
私だって悲しい。だってそれは どんなに好きでも結ばれない ということだから。
したくないけど、それがないと一緒に居ることがだんだん難しくなってしまう。それがとても悲しい。
どんなに好きで、どんなに仲が良くてもいずれ相手が嫌になって別れるのだろう。そうでないならきっと私が罪悪感で別れを切り出す。昔の恋人に対してもそうだったから。
練習して慣らしていくとか、そういうことは一切考えたくないしやりたくもない。気持ち悪いから。
だからこんなの誰かに話しても解決することじゃないし、これから先もずっとこうして生きていくんだと考えて悲しくなることしか出来ない。
もしこの先誰かを好きになって、万が一向こうから好きだと伝えてきても、私はそれを断るだろう。
こんなことを説明しても相手が理解してくれるか分からないし、それこそ「やれば分かる」だなんて言われたらショックでしかない。
理解してくれたところで解決にはならないから、結局私がセックス出来ないのは変わらない。
身体の繋がりが持てないのに付き合ってるだなんて相手に申し訳ないし、無理をさせてしまうだけだろう。
相手が一切性欲のない男なら話は別だが、まあそんな人は滅多に居ない。
だから結局相手に我慢を強いることになってしまうし、最終的には別れてしまうのだろうから最初からそんな関係にならないに越したことはない。
好きなのに、繋がれない。好きなのに、結ばれない。
これがどれだけ悲しいことなのか、分からない人には一生分からないんだろうな。
私はこんな自分が嫌いだし、憎んでる。なんで出来ないんだろうって。
身体が使えないからって全部諦めなくちゃいけないのだ。とても寂しいことだと思う。
好きなのに。
終
理想
私は特別自分のことを真面目だと思ったことはさほど無いのだが、この話をすると大抵「真面目だね」と言われるので、その話をしようと思う。
突然だが、皆さんは普段ひとり反省会なるものを開催することはあるだろうか?
私はこれを日常的に、恐らく幼少時代からほぼ毎日行っている。
具体的に私が言うひとり反省会とは何を指すのかと言うと、主にその日の自分の言動を振り返って「ここが駄目だった」とか「これは良かった」とか、まあ文字通り普通の反省会なのだが、知り合いに聞く限りあまり積極的にこれをやる人は居ないようだ。
これは私が常々思ってることなのだが、人の思考というのは日常のふとした瞬間に表れるものだと思う。
たとえば普段どんなに差別的な言動を批判している人でも、何かあった時に「これだから○○は〜」などと言ったりするのは普段から頭のどこかではその○○に対して差別的な偏見を持っている、ということだ。
このように、人の思考は言葉に、言葉は態度に、態度は行動に表れるものだと思う。
だからこそ私は日々ひとり反省会を開き、感情論ではなく常に正しさを追求すべきだと考えている。
感情というのはその時々で常に移ろうものだし、今日考えていることが明日には変わっているかもしれない。常にこうであるという確証が無いのだ。
私はそれがとても許せないし、確証のないものを人に与えるのは時にハイリスクであると思う。
だけど正しさは常に正しいままであるし、きちんと筋を通して組み立てた答えは揺るぎないものだ。なので私は正しさに重きを置いている。
感情の示すままに安易な発言をすると、相手を傷つけたり、自分の今まで築いてきた信頼を壊すことだってあるだろう。
そうならない為にも、普段からどんな些細なことだって感情ではなく正しさで冷静に判断し、その正しさを自分の軸になるよう思考を自ら矯正しているのだ。それが私の行っているひとり反省会である。
私は恐らく人生で一度も他人に本気の怒りをぶつけたことはないのだが、これもその為であると思う。
怒りのエネルギーとは恐ろしいもので、ついカッとなって酷い暴言を吐いたり、もしかしたら暴力を奮ってしまうかもしれない。一度したことはどんなに謝ろうと二度と戻らないし、そのついカッとなって吐いた言葉というのは、普段から自分は意識していなくとも頭の片隅で思っていることが出たものだろう。
後からどんなに謝ろうと、本心から出た言葉に対する謝罪に何の意味があろうか?その傷は二度と消えないのに、謝ったところでその謝罪にどれほどの価値があろうか?
私には分からないし、私がもしそれをやられた側であったらきっとその人に対する今後の信頼は無に等しいと言えるだろう。
後から言い訳なんていくらでも出来るのだ。でも私はそんな言い訳聞きたくないし、聞いたところでそれは信頼に値しない。
確証のない感情を軸にしていると発言に矛盾が生じるし、ついつい自分の都合の良い方向に考えてしまいがちだ。
でもそれではいつまで経っても成長出来ないし、つまらない人間になるだけだろう。
矛盾の無い、真っ直ぐに一本筋を通した人間に私はなりたいのだ。
その為にも、日々ひとり反省会を開催している。
勉強が出来るとか、お金持ちであるとか、そんな後付けの価値に人間としての本当の価値など見い出せないと、私は思う。
終
努力が出来ないのは甘えか
ぼくはコツコツとした地道な努力が出来ない。本当に出来ない。子供の頃からずっとそうだ。
自分からやりたいと思ったことも、やらなきゃいけないことでも、出来ない。
驚くほどに集中力もやる気も皆無なのだ。( まあADHDと言われればそれまでだが )
幼稚園児の頃、父親が「将来は何になりたいの?」と聞いてきたことがある。それに対し、「ずっとゴロゴロしてグダグダしたい!」と答えたらしい。筋金入り過ぎる。
まあそんなわけで根っからの怠け者なわけだが、この世は結果主義なので天才でも神童でもないぼくは普通に落ちこぼれである。
勉強も運動も出来ない、音楽を聴いたり絵を描くのは好きだが別にセンスがあるわけでもないし、なんならむしろ歌も絵も下手だ。好きこそものの上手なれ、と言うけど、あれは努力家にだけ当てはまるものであって、どんなに好きでも怠け者なら上手くならない。当たり前である。
学問スポーツ芸術、ついでに言えば脳みその作りや人間としての出来も落ちこぼれであるが、一応人間なのでそれなりに悩んだりもするわけだ。
母親に今まで幾度となく「今までなんの苦労も努力もしたことないくせに」と言われてきた。それに対してぼくは何も言い返せないし、事実結果の出ない努力など他人からすれば努力ではないのだ。分かっている。
それでも、結果が出なくとも、ぼくとしてはぼくなりの努力をしているつもりなのだ。
それを実の親に全否定されるのはなかなか辛いものがある。それでも言い返せないし、否定出来ない。だってぼくは怠け者だから。
優しい友達はぼくを頑張り屋だと、努力家だと言ってくれる人も居るが、どうもひねくれ野郎のぼくはそれを正直に受け止められない。
どんなに慰められても、結局ぼくが怠け者で結果が出せないという事実は変わらない。気休めにもならない。
そんな自分のことが大嫌いだ。こんな甘ったれている自分のことが、心底嫌いだし軽蔑してしまう。
だけどいくら嫌ったって憎んだって、意志の弱い人間はそう簡単に変わらない。ずっと怠け者のままだ。
変わろうと思ったって変わらなかった。その度に嫌になるが、それでも何も変わらない。
自分がADHDだと知ってからはほんの少しだけ和らいだが、結果が出せない事実は同じである。
努力が出来ないのをADHDのせいにしてしまう自分も嫌だし、それでも多少なりとADHDのせいもあって、でもやっぱり自分の気持ち次第だとも思う。
そんな堂々巡りを今までの人生で何度もしてきたし、その度に言いようのない苦しさに苛まれて泣きそうになった。泣いたって何も変わらない、これじゃまるで迷子になった幼子だ。
自分はADHDなんだ!と割り切ってしまえたらいいが、世間はそれを甘えと言うだろう。
世の中の大多数がそうだと言ってしまえば、真実でなくともそれは事実へ変わる。
この社会で生きていく為には丸っきり自分だけの力では無理があるし、多少なりとも周囲に認められなきゃ孤立してしまう。人間社会は群れるものだ。生活の様々が成り立たなくなってしまうだろう。
自分は「出来ない」なのか「やらない」なのか、それもよく分からない。
ぼく個人としては「出来ない」だと思っているが、周りからすれば「やらない」に見えるだろう。ならばそれが事実だ。
「出来ないとか言ってないで行動しろ!」
まさにその通りだと思う。出来ることならぼくもそうしたい。出来ない。それは「やらない」なのか。もうよく分からない。
こうやって言い訳がましい自分も嫌いだ。
前にどこかで、『努力出来ない奴は「出来ない」んじゃなくて「やらない」だけ。それは心のどこかで「自分はまだ大丈夫」と思ってるから』というのを見た。
ぼくとしては怠けてしまう自分が嫌で嫌で堪らないし、何をやっても駄目でADHDだなんだと言ってしまうのも嫌だと思っていたが、実はまだ大丈夫だと思っているのだろうか。
もう自分のことさえよく分からなくなってしまう。
ただ甘えているだけなのだろうか。
*
生憎ストラテラは思ったような効き目は無かったが、コンサータは驚異的だった。脳を強制的に覚醒させてフル回転させるので、普段の自分では考えられないほどやる気も集中力も出るし、注意力散漫にならないので安心して街を歩ける。
高校の課題などはコンサータが無いと期限内に終わらないので服用しているが、出来ることなら日々の生活でも服用したい。
医師曰くぼくはあまり身体が大きくないし、年齢的にもあまり強い薬は投与したくないとのことで出してもらえないが。
*
努力が出来るようになりたい。口だけじゃなく実行出来るようになりたい。実行しても続けられるようになりたい。すぐに弱ってしまうこの身体も心も嫌いだ。甘えているのは重々承知している、それを変えられないのも悲しくて堪らない。
外面だけは良いのか友人には「有言実行だよね」「頑張り過ぎだよ」などと言われるが、別にそんなことないのだ。どんなに頑張っても結果にならなきゃ意味が無い。
世の中過程を見てくれる人間などそう居ないものだ。
自分の怠け癖が甘えなのか、ADHDだからと割り切っていいものなのか。
そんなこと言ってないで行動しろ!というのはもっともだろう。ああほらまた堂々巡りだ。
もう疲れてしまった。そんなことを毎日考えるのも辛い。全部自分が悪いと思ってしまう。なんで生まれたんだろうなぁ。出来損ないは出荷しないで廃棄してくれれば良かったのに。
自己肯定感の養い方
最近は忙しさとストレスに追われ、めっきり絵を描くことが減った。このブログの更新頻度だって低いままだ。
やはり期間が空けば技術は落ちるものだし、我ながら下手になったな、と思う。
下手になっただけならまだしも、何も生み出せなくなってしまったのは悲しい。発想力が貧しくなってしまったのだ。
ぼくは自身の創作や世界観でしか自己を肯定出来ないし、表現することも出来ない。
無くなってしまったなら吸収しようと周りに目を向けてみるものの、手に余るばかりで弄んでいる。
追い求める美しさは次第に己へと向き、自己嫌悪に苛まれる日々が続いている。
何も生み出せない自分に価値など無いのだ。
だんだん昼間に起きることが困難になってきて、最近は殆ど寝て過ごしている。
死にたいと思うことも減った。その代わり、何かを願うことも減った。何も感じることが出来ない。ただただ虚無、空白、空っぽである。中身の無い思考を抱えて生きるのは、案外辛い。
離人感は増すばかりで、抜け出すことも増えた。
己の存在を問い、操作が困難になった肉体を呪い、行き場の無い精神は彷徨っている。これじゃまるで亡霊のようだな、と半ば自嘲気味だが、我ながら笑い事では無いな、とも思う。
自分が誰なのか分からないし、この感覚を上手く伝える術が無いので周りに理解されることもあまり無く、ただ与えられた課題を淡々とこなすだけになってしまった。こんなの、ロボットとなんら変わりないじゃないか。
自身が何を望んでいるのかさえ見失ったので目標を立てることも出来ず、なんとなく流される日々は酷く不自由だ。金魚すくいですくわれた金魚のように息苦しい。
数ある多くの中のひと粒に過ぎないことはとうに自覚していたにも関わらず、オリジナルを見つけようと足掻いている。その姿勢こそありふれたものだと思うが、分かっていても悪足掻きは辞められない。
ぼくは何を目指しているのだろう。何も分からなくなった。
自分一人救えない人間が、人を救いたいだなんて烏滸がましいだろうか。
本当に助けてやるべきなのはぼくなのに、それを無視し続けた代償なら、身をもって償うべきだろうか。
愛してやれなくてごめんなさい。ぼくはぼくを呪うことしか出来ない。
愛でラッピングした憎悪を与え続けたのは、他でもないぼく自身なのだ。