lemonの掃き溜め

日々の生活や考え事、妄想などをただ綴ってるだけ。

理想

私は特別自分のことを真面目だと思ったことはさほど無いのだが、この話をすると大抵「真面目だね」と言われるので、その話をしようと思う。

 

突然だが、皆さんは普段ひとり反省会なるものを開催することはあるだろうか?

私はこれを日常的に、恐らく幼少時代からほぼ毎日行っている。

具体的に私が言うひとり反省会とは何を指すのかと言うと、主にその日の自分の言動を振り返って「ここが駄目だった」とか「これは良かった」とか、まあ文字通り普通の反省会なのだが、知り合いに聞く限りあまり積極的にこれをやる人は居ないようだ。

これは私が常々思ってることなのだが、人の思考というのは日常のふとした瞬間に表れるものだと思う。

たとえば普段どんなに差別的な言動を批判している人でも、何かあった時に「これだから○○は〜」などと言ったりするのは普段から頭のどこかではその○○に対して差別的な偏見を持っている、ということだ。

このように、人の思考は言葉に、言葉は態度に、態度は行動に表れるものだと思う。

だからこそ私は日々ひとり反省会を開き、感情論ではなく常に正しさを追求すべきだと考えている。

感情というのはその時々で常に移ろうものだし、今日考えていることが明日には変わっているかもしれない。常にこうであるという確証が無いのだ。

私はそれがとても許せないし、確証のないものを人に与えるのは時にハイリスクであると思う。

だけど正しさは常に正しいままであるし、きちんと筋を通して組み立てた答えは揺るぎないものだ。なので私は正しさに重きを置いている。

感情の示すままに安易な発言をすると、相手を傷つけたり、自分の今まで築いてきた信頼を壊すことだってあるだろう。

そうならない為にも、普段からどんな些細なことだって感情ではなく正しさで冷静に判断し、その正しさを自分の軸になるよう思考を自ら矯正しているのだ。それが私の行っているひとり反省会である。

 

私は恐らく人生で一度も他人に本気の怒りをぶつけたことはないのだが、これもその為であると思う。

怒りのエネルギーとは恐ろしいもので、ついカッとなって酷い暴言を吐いたり、もしかしたら暴力を奮ってしまうかもしれない。一度したことはどんなに謝ろうと二度と戻らないし、そのついカッとなって吐いた言葉というのは、普段から自分は意識していなくとも頭の片隅で思っていることが出たものだろう。

後からどんなに謝ろうと、本心から出た言葉に対する謝罪に何の意味があろうか?その傷は二度と消えないのに、謝ったところでその謝罪にどれほどの価値があろうか?

私には分からないし、私がもしそれをやられた側であったらきっとその人に対する今後の信頼は無に等しいと言えるだろう。

後から言い訳なんていくらでも出来るのだ。でも私はそんな言い訳聞きたくないし、聞いたところでそれは信頼に値しない。

確証のない感情を軸にしていると発言に矛盾が生じるし、ついつい自分の都合の良い方向に考えてしまいがちだ。

でもそれではいつまで経っても成長出来ないし、つまらない人間になるだけだろう。

矛盾の無い、真っ直ぐに一本筋を通した人間に私はなりたいのだ。

その為にも、日々ひとり反省会を開催している。

 

勉強が出来るとか、お金持ちであるとか、そんな後付けの価値に人間としての本当の価値など見い出せないと、私は思う。

 

 

努力が出来ないのは甘えか

ぼくはコツコツとした地道な努力が出来ない。本当に出来ない。子供の頃からずっとそうだ。

自分からやりたいと思ったことも、やらなきゃいけないことでも、出来ない。

驚くほどに集中力もやる気も皆無なのだ。( まあADHDと言われればそれまでだが )

 

幼稚園児の頃、父親が「将来は何になりたいの?」と聞いてきたことがある。それに対し、「ずっとゴロゴロしてグダグダしたい!」と答えたらしい。筋金入り過ぎる。

 

まあそんなわけで根っからの怠け者なわけだが、この世は結果主義なので天才でも神童でもないぼくは普通に落ちこぼれである。

勉強も運動も出来ない、音楽を聴いたり絵を描くのは好きだが別にセンスがあるわけでもないし、なんならむしろ歌も絵も下手だ。好きこそものの上手なれ、と言うけど、あれは努力家にだけ当てはまるものであって、どんなに好きでも怠け者なら上手くならない。当たり前である。

学問スポーツ芸術、ついでに言えば脳みその作りや人間としての出来も落ちこぼれであるが、一応人間なのでそれなりに悩んだりもするわけだ。

母親に今まで幾度となく「今までなんの苦労も努力もしたことないくせに」と言われてきた。それに対してぼくは何も言い返せないし、事実結果の出ない努力など他人からすれば努力ではないのだ。分かっている。

それでも、結果が出なくとも、ぼくとしてはぼくなりの努力をしているつもりなのだ。

それを実の親に全否定されるのはなかなか辛いものがある。それでも言い返せないし、否定出来ない。だってぼくは怠け者だから。

優しい友達はぼくを頑張り屋だと、努力家だと言ってくれる人も居るが、どうもひねくれ野郎のぼくはそれを正直に受け止められない。

どんなに慰められても、結局ぼくが怠け者で結果が出せないという事実は変わらない。気休めにもならない。

そんな自分のことが大嫌いだ。こんな甘ったれている自分のことが、心底嫌いだし軽蔑してしまう。

だけどいくら嫌ったって憎んだって、意志の弱い人間はそう簡単に変わらない。ずっと怠け者のままだ。

変わろうと思ったって変わらなかった。その度に嫌になるが、それでも何も変わらない。

自分がADHDだと知ってからはほんの少しだけ和らいだが、結果が出せない事実は同じである。

努力が出来ないのをADHDのせいにしてしまう自分も嫌だし、それでも多少なりとADHDのせいもあって、でもやっぱり自分の気持ち次第だとも思う。

そんな堂々巡りを今までの人生で何度もしてきたし、その度に言いようのない苦しさに苛まれて泣きそうになった。泣いたって何も変わらない、これじゃまるで迷子になった幼子だ。

自分はADHDなんだ!と割り切ってしまえたらいいが、世間はそれを甘えと言うだろう。

世の中の大多数がそうだと言ってしまえば、真実でなくともそれは事実へ変わる。

この社会で生きていく為には丸っきり自分だけの力では無理があるし、多少なりとも周囲に認められなきゃ孤立してしまう。人間社会は群れるものだ。生活の様々が成り立たなくなってしまうだろう。

 

自分は「出来ない」なのか「やらない」なのか、それもよく分からない。

ぼく個人としては「出来ない」だと思っているが、周りからすれば「やらない」に見えるだろう。ならばそれが事実だ。

 

「出来ないとか言ってないで行動しろ!」

 

まさにその通りだと思う。出来ることならぼくもそうしたい。出来ない。それは「やらない」なのか。もうよく分からない。

こうやって言い訳がましい自分も嫌いだ。

 

前にどこかで、『努力出来ない奴は「出来ない」んじゃなくて「やらない」だけ。それは心のどこかで「自分はまだ大丈夫」と思ってるから』というのを見た。

ぼくとしては怠けてしまう自分が嫌で嫌で堪らないし、何をやっても駄目でADHDだなんだと言ってしまうのも嫌だと思っていたが、実はまだ大丈夫だと思っているのだろうか。

もう自分のことさえよく分からなくなってしまう。

ただ甘えているだけなのだろうか。

 

 

生憎ストラテラは思ったような効き目は無かったが、コンサータは驚異的だった。脳を強制的に覚醒させてフル回転させるので、普段の自分では考えられないほどやる気も集中力も出るし、注意力散漫にならないので安心して街を歩ける。

高校の課題などはコンサータが無いと期限内に終わらないので服用しているが、出来ることなら日々の生活でも服用したい。

医師曰くぼくはあまり身体が大きくないし、年齢的にもあまり強い薬は投与したくないとのことで出してもらえないが。

 

 

努力が出来るようになりたい。口だけじゃなく実行出来るようになりたい。実行しても続けられるようになりたい。すぐに弱ってしまうこの身体も心も嫌いだ。甘えているのは重々承知している、それを変えられないのも悲しくて堪らない。

外面だけは良いのか友人には「有言実行だよね」「頑張り過ぎだよ」などと言われるが、別にそんなことないのだ。どんなに頑張っても結果にならなきゃ意味が無い。

世の中過程を見てくれる人間などそう居ないものだ。

自分の怠け癖が甘えなのか、ADHDだからと割り切っていいものなのか。

そんなこと言ってないで行動しろ!というのはもっともだろう。ああほらまた堂々巡りだ。

もう疲れてしまった。そんなことを毎日考えるのも辛い。全部自分が悪いと思ってしまう。なんで生まれたんだろうなぁ。出来損ないは出荷しないで廃棄してくれれば良かったのに。

自己肯定感の養い方

最近は忙しさとストレスに追われ、めっきり絵を描くことが減った。このブログの更新頻度だって低いままだ。

やはり期間が空けば技術は落ちるものだし、我ながら下手になったな、と思う。

下手になっただけならまだしも、何も生み出せなくなってしまったのは悲しい。発想力が貧しくなってしまったのだ。

ぼくは自身の創作や世界観でしか自己を肯定出来ないし、表現することも出来ない。

無くなってしまったなら吸収しようと周りに目を向けてみるものの、手に余るばかりで弄んでいる。

追い求める美しさは次第に己へと向き、自己嫌悪に苛まれる日々が続いている。

何も生み出せない自分に価値など無いのだ。

だんだん昼間に起きることが困難になってきて、最近は殆ど寝て過ごしている。

死にたいと思うことも減った。その代わり、何かを願うことも減った。何も感じることが出来ない。ただただ虚無、空白、空っぽである。中身の無い思考を抱えて生きるのは、案外辛い。

離人感は増すばかりで、抜け出すことも増えた。

己の存在を問い、操作が困難になった肉体を呪い、行き場の無い精神は彷徨っている。これじゃまるで亡霊のようだな、と半ば自嘲気味だが、我ながら笑い事では無いな、とも思う。

自分が誰なのか分からないし、この感覚を上手く伝える術が無いので周りに理解されることもあまり無く、ただ与えられた課題を淡々とこなすだけになってしまった。こんなの、ロボットとなんら変わりないじゃないか。

自身が何を望んでいるのかさえ見失ったので目標を立てることも出来ず、なんとなく流される日々は酷く不自由だ。金魚すくいですくわれた金魚のように息苦しい。

数ある多くの中のひと粒に過ぎないことはとうに自覚していたにも関わらず、オリジナルを見つけようと足掻いている。その姿勢こそありふれたものだと思うが、分かっていても悪足掻きは辞められない。

ぼくは何を目指しているのだろう。何も分からなくなった。

自分一人救えない人間が、人を救いたいだなんて烏滸がましいだろうか。

本当に助けてやるべきなのはぼくなのに、それを無視し続けた代償なら、身をもって償うべきだろうか。

愛してやれなくてごめんなさい。ぼくはぼくを呪うことしか出来ない。

愛でラッピングした憎悪を与え続けたのは、他でもないぼく自身なのだ。

ぼくを見殺しにした大人たちは過去を正当化する

ふと、昔のことを思い出した。虐められて、大人たちに見殺しにされたことを。

ある人はこう言う。「そんな過ぎたこといつまで引きずるの?」と。「辛いことがあった分だけ強くなれるんだよ。」と。

でも、そのセリフはやられた本人が言わなきゃ意味が無い。

それに、辛いことがあった分だけ強くなれるなら、ぼくは今頃相当強いメンタルの持ち主だと思う。「考え方次第だよ」と言うが、それだって結局本人が言わなきゃ意味が無い。

何より、そういうセリフを言うのは僕の場合大抵その見殺しにした大人たちだ。ぼくのことを殺した分際で何を言う?というのが正直なところ。

責任逃れしたいだけじゃないか。ぼくが助けを求めたって聞こえないふりしてたくせに、いざ自分たちの都合が悪くなれば大急ぎで申し訳程度の助け舟を出す。

なんなのだ、そんなんで教育者を名乗るとは余程良い身分なのだな。死んで詫びてくれ、といった感情しか湧かない。

加害者や傍観者の中では全部終わったことになっているのだろうが、ぼくにとっちゃ全く終わっていない。

未だに夢に見るのだ、嗤われて貶されて無視されて殴られるあの光景を。その度に飛び起き、恐怖に震えて独り泣く。

ぼくだって好きで思い出しているわけではなく、もう記憶にこびりついて離れないんだ。どうしようもないのだ。

普段から憎しみに満ちているわけではないけれど、こうしてふとした時に思い出し、殺意がフツフツと湧き上がる。

ぼくは根暗で陰湿な人間なので、許すだなんて到底出来ないだろう。

自ら手を下すなんて馬鹿な真似はしないが、出来るだけ長く苦しんで死んでほしい。絶望と悲しみに暮れてほしい。そう願うばかりだ。

きっとこの記憶は、不快感は、恐怖は、一生拭えないし消えないだろう。

繰り返し

何度も何度も同じことを考える。毎日、毎日。

死にたいとは思うけれど、すぐに飛び降りてしまえるような行動力は無い。けれど生きたいと願うような生への執着も無い。

何故生きているのだろうと問うが、生まれてしまったから、としか答えられない。

決してこの答えは花丸ではないのだろうが、それでも事実だ。

下らない人生だと幾度と無く自分自身を嘲笑した。生きている実感が全くと言って良い程無い。

ぼくの16年間は無駄だったのだろうか。あと4年経ったってこの苦しみから果たして解放されるのか? それすら分からない。

「見えない未来のことなんか考えたってしょうがないでしょう。」というのは頷けるが、未来というのは現在の延長線上に存在する。現状苦しくて仕方がないし打開する術も無いのに、それが続いていく恐怖。もしかしたら、この苦しみからは解放されないかもしれないのに? ゴールが見えないまま、もしかしたらゴールなんて最初から存在しないかもしれないのに、我武者羅に走り続けるマラソンなんて御免だ。

いっそ、と死を望んだことは数多と存在するが、死ぬ勇気なんてどうせ無いのだ。

痛みも苦しみも恐怖も無く、眠りに就いたらそのまま目が覚めないで欲しいと願う。

 

「お前より辛い人間はたくさん居るんだぞ。」とか、聞き飽きたんだ。

辛いと思うことさえ許されないなら、もうぼくが生きてる価値など無いも同然だろう。存在していることすら馬鹿らしくなる。

「神様は乗り越えられる試練しか与えない。」とか、馬鹿らしくて笑いが込み上げてくる。じゃあこれまでその " 試練 " とやらを乗り越えられずに自らの命を投げ捨てて逝った者達は、なんだったと言うのか。馬鹿にするのも大概にしろ、死んでいった人間を踏みにじるようで胸糞が悪い。

 

誰でも良いから助けて欲しい。そう声を上げたことは幾度と無くあるが、どれも届かぬ願いだった。ぼくは " 無かったこと " にされたのだ。

何故生まれたのだろうと、また、考える。答えは同上だ。こんな堂々巡りに意味が無いことくらい理解している。それでも、為す術無くただ存在しているだけの現状、思考を巡らせることしかやることが無いのだ。

もう、疲れたのだ。誰でも良いから助けて欲しい。もう自分を否定し続けるのも疲れた。嗤われるのも疲れた。嘲笑に愛想笑いを返すのも疲れた。ぼくを殺すのも、疲れた。

近状報告

皆様、こんばんは。いや、おはようございます?

なんにせよ、午前5時という本来なら健康的過ぎる時間にブログを書き始めているわけですが、まあこれは所謂徹夜というやつなので、健康もクソもないです。

さて、長らくブログを更新していなかったので、まずは近状報告といきましょう。

 

lemon、バイト辞めたってよ。

はい、バイト辞めました。

知ってる人も知らない人も居ることかと思いますが、ぼくは某イタリアン系ファミリーレストランにて働いておりました。だいたい半年とちょっと、といったところでしょうか。

いや〜、しんどかった。

マジで、マ〜ジでキツかった。なんでぼくは人生初のアルバイトにあそこを選んでしまったのだろう。

ここから先は決して某イタリアン系ファミレスの評価を下げたいだとか、そういった意図は含まれていないことだけ言っておく。いち従業員の(元だけど)、たわいもない愚痴だと思ってくれ。

まず、当たり前だが飲食店なので皿が重いし熱い。知ってる人も多いだろうが、あのファミレスは従業員がお盆を使わず素手で大量の皿を運ぶ。

一応皿同士の重力や窪みなどを利用した云々で、理論上は可能なことなのだがいかんせん重い。そして熱い。ベテランのパートさんでも「いや、熱いものは熱いし重いものは重い。」と言うほどだ。まあ当たり前なのだが。

火傷なんて日常茶飯事だし、忙しければそれだけ運ぶ量も多くなり、必然的に手首が壊れそうになる。いや、なんなら腱鞘炎になりかけた。

研修初日、ぼくは思った。「いや、馬鹿じゃねえの?」と。

どう考えてもあれ人が持っていい量じゃないでしょ。なんでお盆使わないのよ。びっく○ドンキーさんみたいにカートとか使おうよ。

 

先輩「案外慣れちゃえば楽勝だよ〜!」

 

え、どこが?慣れても無理なもんは無理です。いいですか皆さん、人間には限界というものがあるんです。人の腕は二本しか無いのに、10枚以上皿を抱えてグラスを6本持つって馬鹿ですか?死にますよアンタ…。

 

他にも、ああいう安い店は客の質もたかが知れてるので、まあ当然厄介なクレーマーや態度の悪い客なんて吐いて捨てるほど居るんですよね。

いやはや、普段Twitterなんかでそういった悪意の塊みたいな人間のツイートとか見ますけど、実在するんだなぁって無駄に感心しました。まあ働いてるうちは死んでほしいとしか思ってなかったですけど。

世の中には死ぬほど下らないことでもいちいち神経に障ってブチ切れて他人に文句を言わなきゃ気が済まない人間が一定数居ることに気付きました。社会って怖いね。

絶対にこうはなりたくない、と思った瞬間でした。

 

そして何より、そんなゴミみたいな人間を日々相手にしてると、ちょっとしたことでも涙が出るほど嬉しくなるんですよね。

例えば、お会計の後に「ご馳走様でした」って言ってくれるとか、料理を受け取った時に「ありがとうございます」って一言添えるとか。

なんかもう、常日頃から人の怒りに触れてると、こういう小さなことでも泣けます。実際、初めてお礼を言われた日には帰り道ちょっと泣きました。

別にお礼を言われたくてやってるわけじゃないけれど、こういう小さなことひとつひとつにその人の人柄が出ますよね。こういう人間になろうと思ったし、実際言うようになりました。

人に優しく出来るのは自分に余裕が無いとなかなか難しいことだと思いますが、皆さんもちょっと自分に余裕がある時は是非コンビニなりファミレスなり店員さんに優しくしてあげて下さい。心がほんわかします。

 

今度は逆に、一番悲しかったことを書いてみます。

ある日、とある若いカップルが来店されたんですが、ちょうど夕方で昼間の忙しいピークが過ぎ、片付けでバタバタしつつ従業員が少ない時間帯だったんですよね。

そこでカップルの女はポテトフライ、男はイタリアンハンバーグと、それぞれドリンクバーを注文したんです。まあここまでは良いんですよね、よくあることなので。

暫くしてそのカップルが退店したのでそのテーブルの片付けに入ったんですが、なんと料理に全く手をつけていなかったんです。

女の方は半分くらいポテト食べてたっぽいんですが、男の方は一切食べてませんでした。本当に全く、一口も食べてなかったんです。

出した時のままの状態で、固まってました。

恐らく人数分の料理を頼むとドリンクバーがセット料金になるので、それ目当てなんでしょうが、ゆーてたかが90円ですよ?

ドリンクバーの単品は280円で、セットだと190円です。

確かに90円はそこそこ大きいかもしれませんが、だとしてもそこらのファミレスより単品価格はかなり安いですし、というかそもそも食べられない物を頼むなって話ですよ。

食べ残しくらいいつものことなので何とも思いませんが、流石に全く手が付けられていないのは初めてのことだったし、何よりお昼のピークがいつもより人手が足りず忙しかったのもあって、初めて廃棄処分の時に泣きました。

お願いです、自分が食べ切れる量を頼んで下さい。別にご飯系じゃなくてデザートとかでもセット料金になるし、スープとかおつまみ系とかもっと軽めの料理も色々あるので、どうか、どうか……。

これがあのバイトをしていて断トツで辛かったことです。みんなも食べ物は大切にね。

 

 

今何してんの? - 絶賛、ニート満喫中だってよ。

はい、現在無職です。

一応次の仕事の目処はついてるんですが、高校生と言えどその仕事は16歳からなんですよね。ぼくは早生まれなので、あと一週間ほど待たなきゃならんのです。まあその間に色々と手続きとか済ませちゃえば良い話なので、今はそういうことを少しずつやってます。

 

いやぁ、ニートやってるとマジで生活リズム狂うね。

最近のぼく、朝の7~9時あたりにみんなが学校に行ったり会社に行ったりするのを見届けながら寝て、みんなが帰ってくる14~16時あたりに起きるような生活してるよ。マジでゴミ。

曜日感覚も日付感覚も、なんなら時間の感覚も殆ど無いんだけど、学校も終わったし職も無いしで毎日があまりにも暇過ぎる。

しかもそんな時間に起きるから、どこかに出掛けようにも出掛けられないし。

日々暇を持て余して、PCと睨めっこして、ゲームしたりゴロゴロして生きております。

よく、好奇心は猫をも殺す、だなんて言いますが、今の状況はむしろ退屈は猫をも殺すですね。まあ猫はいくら退屈でも寝てるんでしょうけど。

いいな~~~~ぼくも猫になりた~~~~~~~い!!!!!!!!!

すみません、取り乱しました。まあ来世は猫になりたいですけどね。

 

 

さて、長くなりましたがこんなもんでしょうか。

要するに、lemon、今は仕事も辞めたし学校も長期休みで死ぬほど暇な無職やってるってよ。ってことです。

それでは皆さん、ごきげんよう

 

 

また会う日まで……。

パーソナルスペース

郵便受けを見に外へ出たら夕陽が綺麗で、このまま灰になって死んでしまえたらいいな、なんて思った今日この頃、lemonです。

 

私は人と関わるのが苦手です。怖い。馴れ馴れしくされるのも嫌だ。

初対面ですぐにタメ口をきいてあだ名なんて付けられた日にゃ、もうその人は苦手認定してしまう。心の中を見透かされているようで怖くて堪らなくなる。

私は昔から年上か年下としか仲良くなれない。小学校に入学して初めて出来た友達も、初めて遊んだのも六年生の女の子だった。

ショッピングモールなんかにある子供の遊び場コーナーに行けば必ず小さい子が寄ってきたし、手を引かれて遊び回された。

でも私はそれが心地良い。

年上は経験ゆえ知識が豊富で、話していてとても楽しいし勉強になる。

年下は無邪気で、年を重ねるごとに消えていく柔軟さに感心させられる。(なんだかこの発言は年寄り臭いけど)

そして両者ともに、敬語を使うことが共通している。

もちろん小学生の時に六年生相手とは言えど敬語なんて使わなかったけれど、少なからず同級生と同じようには接しなかったし、小さい子相手にもそんなことはしない。

けれど、同年代と比べて圧倒的に適度な距離感がある。私はそれが好きなのだ。

私はあまり人のことをすぐに信用したり出来ない。どうせすぐに忘れて壊れて消えてしまうのは学習済みだから。

環境のせいもあるだろうが、私が通った小学校や中学校は馴れ馴れしい人が多かった。

初めて遊んだその日に「うちら親友だよね!」なんて言われた日には思わず素で「え?」と聞き返してしまったし、今でも理解が出来ない。(正直友達だとも思っていなかった。)

中学を卒業してからも、久しぶりに会った大して仲良くもなかった他クラスの人に「なんで最後の方学校来なかったの?」だの「高校はちゃんと行くんだよ!」だの言われて大変不愉快だったし、なんでこんなに空気も読めないし気も使えないんだろう、と思った。

同年代だから、という理由だけでどうして途端に馴れ馴れしくなるのか分からない。

いきなり踏み込まれて荒らされても困ってしまう。私に適応能力なんてものは備わってないので、いきなり踏み込まれると逃げ回って隠れたくなる。結構マジでやめてほしい。

対人能力に難があるなぁ、とつくづく思うが、こればっかりは不得意なのでどうしようもない。克服したいんだけどなぁ。

同じような理由で人と目を合わせるのも苦手だ。何もかも見透かされているようでゾッとする。まあ接客業をしているのでバイト中はやるしかないのだが。

写真を撮られるのも怖い。プリクラでさえマスクをしたままだ。

誰かの記憶に、何かの記録に、醜い自分が残るのがとても怖い。同時に嫌な記憶も思い出してしまうので、中学の卒業アルバムは押入れの奥へ仕舞い込んだし、写真は破り捨てた。

要するに自分に自信がないわけだ。だけど頑固だから人に合わせるのが嫌で集団から孤立して嫌われる。自業自得である、仕方ない。

 

明日から世間ではGWだと言うのに、私は4連勤です。頑張ります。

みんな、青春は後悔のないようにね。

 

 

では、また次回。